作品を知る

太陽は、隠すか、輪にして描く——バーチフィールド・狩野周信・モネほか九点

太陽はまぶしくて直視できない。では絵はどう描くのか。木や雲で隠す。画面から締め出して光の働きだけを塗る。直視できる朝の赤い円を選ぶ。顔を付け、人にまとわせ、金の文様にする。九点を数えると、さえぎりなしに丸く描かれた太陽は一点しかなかった。

木々を透かす陽光
チャールズ・バーチフィールド《木々を透かす陽光》クリーヴランド美術館蔵

黒い梢の真ん中が、白く抜けている

野原に、一本の高い木が立っている。

葉の茂りは黒く、影絵のように平たい。

その黒い茂みのちょうど真ん中だけが、白く丸く抜けている。

太陽である。

光は梢からあふれ、白い筋になって空へ流れ出している。

野は薄い橙に染まり、遠くに小さな木が見える。

太陽を見ているはずなのに、まぶしくない。

黒い枝が、光のまわりをぐるりと囲っているからである。

木々を透かす陽光
チャールズ・バーチフィールド《木々を透かす陽光》1917年。館の記録では、水彩と不透明水彩。紙は55.9×45.7センチ。番号は1930.849。クリーヴランド美術館蔵。チャールズ・バーチフィールド《木々を透かす陽光》クリーヴランド美術館蔵

描いたのは、アメリカの画家バーチフィールドである。

制作の日付は、1917年6月30日と日の単位まで記録に残る。

館の記録では、前の年からオハイオの野外で写生するうちに、太陽を劇的な玉として描き始めた。

この紙は、木と太陽でステンドグラスの窓を思わせる一連の一枚だという。

枝が太陽へ伸びて、暗い光輪のような枠を作る、と記録は読む。

光輪は、聖人の頭のまわりに描かれる光の輪である。

光輪に祈りの句を打ち込んだ絵の回で見た、あの輪である。

風景に宗教の図像を重ね、自然のなかに見た神聖なものを示した、という読みである。

つまりこの木は、太陽の額縁であり、光輪でもある。

付記には、作り方についての指摘もある。

下描きで構図を固めてから塗るのではなく、水彩で直に描いた早い例だという。

太陽のまわりの色のにじみは、その場の筆の速さの跡でもある。

隠しながら、あふれさせる。

見えない太陽の描き方として、これほど分かりやすい手はない。

ここで、当たり前のことを確かめておきたい。

太陽は、直視できない。

まぶしすぎて、見つめれば目を傷める。

月なら、じっと見て形を写せる。

満月を円い空白として摺った回で数えたように、月の絵はたくさんある。

では、見つめることのできない太陽を、絵はどう描いてきたのか。

隠す。

画面から締め出す。

円にする。

顔を付ける。

人にまとわせる。

文様にする。

九点を、このやり方の順に並べて数えてみる。

写真の太陽も、雲の奥にいる

二点目は、絵ではない。

海の上の空に、厚い雲が浮かんでいる。

雲の縁だけが、燃えるように白く光る。

太陽はその奥にいて、姿は見えない。

海面には、砕けた光が一面に散っている。

陽光の効果、ノルマンディー
ギュスターヴ・ル・グレ《陽光の効果、ノルマンディー》1856年ごろ。館の記録では、湿板コロディオン原板からの鶏卵紙プリント。画面は32×41.8センチ。番号は1987.54。クリーヴランド美術館蔵。ギュスターヴ・ル・グレ《陽光の効果、ノルマンディー》クリーヴランド美術館蔵

写真である。

絵ではないが、太陽をどう見せるかという工夫の点で、同じ土俵にいる。

館の記録では、ル・グレは1856年からの二年ほどで海の写真を撮り、一躍名を上げた。

劇的な陽光と、雲と、水の効果を追いかけた仕事だったとある。

地中海と、イギリス海峡の海だという。

当時の感光材は、色によって感じ方が偏っていた。

そのため、海と空を一度の露光で両方写すことができなかったとある。

ル・グレは、空の原板と海の原板を別々に撮り、一枚の紙に重ねて焼いた。

空には空の露光を、海には海の露光を与えるための工夫である。

つなぎ目が見えてしまう例も多いが、この一枚では見えない、と記録は述べる。

つまりこの空と海は、同じ瞬間のものとは限らない。

つぎはぎまでして作った空の主役が、雲に隠れた太陽である。

太陽そのものにレンズを向ければ、画面はただ白く飛んでしまう。

雲というついたてが、光を見られる強さまで弱めている。

紙の表には、赤いインクで署名が書かれている。

貼られた札には、陽光の効果、という題の言葉が読める。

題は太陽そのものを名指ししていない。

太陽ではなく、効果。

つまり、姿ではなく働きが写っている。

写真は、目よりも正直な機械である。

その機械でさえ、太陽を写すときは雲を待った。

直視できないという事情は、絵と写真に共通だった。

そしてこの言い方は、次の絵の題にもそのまま当てはまる。

太陽の働きだけを、描く

石の壁が、画面いっぱいに立ち上がっている。

大聖堂の正面である。

空は、左上に細く残るだけ。

太陽は、画面のどこにもない。

あるのは、石を染める橙の光と、彫りの奥にたまる青い影である。

ルーアン大聖堂、西正面、陽光
クロード・モネ《ルーアン大聖堂、西正面、陽光》1894年。館の記録では、油彩・カンヴァス。100.1×65.8センチ。額を含めて127.6×91.4センチ。番号は1963.10.179。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。クロード・モネ《ルーアン大聖堂、西正面、陽光》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

扉の上の彫刻も、塔の縁飾りも、輪郭は光と影に溶けかけている。

石を描いたというより、石に当たった光の量を塗り分けた画面である。

同じ正面を、時刻と天気を変えて繰り返し描いた連作の一枚である。

題には、陽光の語が入っている。

それなのに、太陽は描かれていない。

描かれているのは、太陽が石をどう変えるか、だけである。

同じ主題を繰り返す連作という発明の回で見たやり方が、ここでも働く。

朝の正面と昼の正面は、同じ石でも別の色になる。

その差を並べて見せるために、太陽の姿は要らなかった。

太陽は画面の外で動き、石の色だけが画面の中で変わる。

時計の針を見せずに、文字盤の明るさだけで時刻を告げるようなものだ。

太陽を締め出したまま太陽を描く、いちばん徹底した型だと言える。

次の一点は、同じことを室内でやっている。