暮らしと名画

洗うとは、見えなくすること——アーフェルカンプ・ピサロ・スローンほか九点

洗う場所だけが、残っている

四点目では、人がいない。

バ・ムードンの古い洗濯場
アンリ・リヴィエール《バ・ムードンの古い洗濯場》1902年。館の記録では、多色リトグラフ。画面は17.1×21.1センチ。番号は2003.394。クリーヴランド美術館蔵。アンリ・リヴィエール《バ・ムードンの古い洗濯場》クリーヴランド美術館蔵

横長の版画である。

画面は17.1×21.1センチしかない。

画面の下半分は、水である。

水は灰色で、波がほとんどない。

その上に、木の構造物が乗る。

構造物は、水に浮かぶ船である。

板が横に渡り、柱が縦に立つ。

板は古び、色が抜けている。

柱は細く、傾いているものがある。

屋根は、一部が落ちている。

手前には、板の橋が架かる。

橋の上には、誰もいない。

岸には、枯れた木が数本立つ。

木は葉を落とし、枝だけである。

奥には、低い岸が続く。

空は薄い黄で、雲が横に流れる。

左の端に、細い煙突が立つ。

色は、灰と褐色と薄い黄だけである。

輪郭は、細い黒い線である。

館の記録では、この画家は当時のある都市を三十六の異なる眺めで表そうとした。

それぞれの図は、遠くに見える塔で結ばれているという。

そして館は、洗濯の産業について書いている。

その産業は連作を通して現れる。

この一枚は、ある郊外の風雨にさらされた洗濯船を中心に据えている。

そこは、都市から地理的にも心理的にも離れた場所であるという。

館の記録は、そう説明している。

つまり洗う場所は、都市の外にある。

汚れを落とす仕事は、離れた場所で行われる。

九点のうち、人が一人もいないのは、この一点である。

足を洗う、その手元

五点目では、洗われるのは足である。

弟子の足を洗うキリスト
ニコラ・ベルタン《弟子の足を洗うキリスト》1720年から30年。館の記録では、板に油彩。49.5×72.1センチ。番号は1979.305。シカゴ美術館蔵。ニコラ・ベルタン《弟子の足を洗うキリスト》シカゴ美術館蔵

横長の板絵である。

49.5×72.1センチある。

画面の奥に、大きな柱が並ぶ。

柱のあいだから、明るい空が見える。

奥には、卓と人びとがいる。

手前の左に、人が集まる。

中央に、男が膝をつく。

体は前へ折れ、腰を落とす。

その前に、もう一人が座る。

座る人は、片足を前へ出す。

膝をついた人の手が、その足に触れる。

足元には、浅い器がある。

器は円く、金色である。

水は、描かれていない。

まわりには、数人が立つ。

一人は、驚いた身振りをする。

一人は、上を指す。

衣は赤と青と黄で、襞が深い。

床は石で、線が引かれる。

左上には、暗い幕が垂れる。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

つまり場面の説明はない。

題が、していることを説明している。

洗う人が、洗われる人の前に膝をつく。

上下が、いつもと逆になる。

館の札にも、洗うという語が入る。

題そのものが、その動作を名指している。

主語は、洗う側の名である。

九点のうち、洗う人が下にいるのは、この一点で二点のうちの一点目である。

同じ場面を、小さな板に試す

六点目も、足を洗う場面である。

弟子の足を洗うキリストのための習作
ヘンリー・オサワ・タナー《弟子の足を洗うキリストのための習作》1905年ごろ。館の記録では、油彩・合板。15.2×20センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ヘンリー・オサワ・タナー《弟子の足を洗うキリストのための習作》スミソニアン協会蔵

きわめて小さい板である。

15.2×20センチしかない。

画面は暗い。

色は、褐色と紫と黄土である。

画面の右に、人が数人立つ。

立つ人は、暗い衣を着る。

顔は小さく、輪郭がぼける。

一人は、白い布を頭に巻く。

その左に、身をかがめる人がいる。

体は深く折れ、膝が床に近い。

腕は前へ伸びる。

手の先は、暗くて見えない。

その前に、座る人がいる。

座る人の脚が、前へ出る。

床は明るい黄土である。

床には、光が斜めに落ちる。

背後の壁は、黄と緑である。

壁の上のほうが、明るい。

筆の跡は太く、粗い。

輪郭を引いた線が、ほとんどない。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

題に、習作という語がある。

つまりこれは、大きな絵のための試しである。

先の板絵と、同じ場面である。

しかし人の数が違う。

あちらは十人以上、こちらは数人である。

そして光の当て方が違う。

あちらは奥から、こちらは横から来る。

床の明るさが、そのぶん違う。

こちらでは、床が画面の下半分を占める。

人物は、その明るさの上に黒く並ぶ。

九点のうち、同じ主題が二点あるのは、ここだけである。

洗われるのは、馬である

七点目では、洗う相手が変わる。

渓流で馬を洗う
趙松雪《渓流で馬を洗う》十七世紀。館の記録では、額装の絵、絹本墨画。60×36.5センチ。番号は15.96.4。メトロポリタン美術館蔵。趙松雪《渓流で馬を洗う》メトロポリタン美術館蔵

縦長の絵である。

60×36.5センチある。

絹は褐色に変わっている。

画面の上三分の一に、岩がある。

岩は濃い墨で描かれる。

輪郭は太く、内側に細かい筆の跡がある。

岩の上には、小さな木が生える。

木の葉は、点の集まりである。

岩の下は、水である。

水は白く残される。

線はほとんど引かれていない。

水の中に、馬がいる。

馬は二頭である。

一頭は黒く、一頭は白い。

黒い馬は、体を沈める。

首だけが水の上に出る。

白い馬は、岸に近い。

その脇に、人が立つ。

人は小さく、輪郭だけである。

手には、細い綱を持つ。

画面の右上には、文字がある。

文字は縦に数行並ぶ。

その下に、赤い印がある。

館の札には「男性」と「馬」がある。

館の記録は、それ以上のことを書いていない。

つまり、なぜ洗うのかは書かれていない。

馬を洗うのは、身なりを整えるためでもある。

そして暑い日には、冷やすためでもある。

どちらかは、画面から決められない。

黒い馬は、体のほとんどが水の中にある。

白い馬は、脚だけが浸かる。

二頭で、水の深さが違う。

浅いところから深いところへ、順に入っていくらしい。

人の綱は、白い馬のほうへ伸びる。

洗うことが、色を落とす

八点目では、洗うのは危険である。