美術館はなぜ画像を手放したのか——モネと北斎の公開画像
手放すと、何ができるようになるか
抽象論ではなく、実例で示したい。

隅田川の夕景である。
黄色い屋根船に人が乗り合い、船頭が棹を差している。
左に桟橋と橋の欄干。奥に長い橋が架かり、その下に小舟が点々と浮かぶ。
中央の遠くに、藍色の富士が小さく見える。
水面は青い波形の連続で埋められている。
この図は、シリーズ全46図のうちの一枚である。
夕陽を見る人々を舟の上に配し、富士を遠景の点として置く構成になっている。

同じ図である。同じ館が二枚を所蔵し、両方の画像を公開している。
並べると、違いが見える。
二枚めのほうが水の藍が濃い。空の色の切れ目もはっきりしている。
手前の桟橋のあたりでは、二枚めに緑の草が見える。
紙の縁の切り方も、わずかに違う。
ただし、違いの原因は一つではない
ここで注意が必要である。
見えている差は、摺りの差だけではない。
一枚めの画像には、下端に濃度標が写っている。記録用の撮影をそのまま公開したものだ。
二枚めは、印刷や掲載に使う想定で撮られた画像に見える。
つまり撮影の条件と加工の方針が違う。
版木の摺りの違いを比べたいなら、この撮影の差を先に引き算しなければならない。
公開画像は便利だが、「同じ条件で撮られた資料」ではない。
比較をするときは、寸法と受け入れ年と撮影の様子を、記録で確かめる必要がある。
この点は、教育の場面でとくに重要になる。
「本物はもっと青い」と言われても、確かめる手立てがなければ議論できない。
公開された画像は、議論の出発点にはなるが、結論にはならない。
そのうえで、この二枚が並べられること自体が新しい。
以前なら、二館の許諾を取り、二枚の図版代を払い、印刷して比べる必要があった。
いまは画面の上で切り替えて見られる。
同じ版の摺りの差を追う作業は、かつて専門家の特権だった。
その敷居が、画像の公開によって大きく下がっている。
同じことは、翻訳にも言える。
日本語で題名と技法を書き直し、日本語で解説を付ける。
図版を使えなければ、この作業に意味がない。文字だけでは伝わらないからである。
画像だけでなく、記録も出ている
開かれたのは画像だけではない。

若者が白い衣で立ち、青い布を持って馬を引いている。
左に馬の頭。右手前に人々が背を向けて座り、赤や黄の衣をまとう。
背景は黄土色の丘と、右に一本の木。遠くに水面が見える。
塗り残しが多く、下地の色が広く見えている。完成していない画面である。
この作品について、私たちは所蔵館の公開データから次のことを確認した。
制作年、寸法、額込みの寸法、署名の位置、そして所蔵に至る経緯である。
こうしたデータは表形式で一括公開されており、当サイトの記録もそこから作っている。
画像を手放すことと、データを手放すことは別の決定である。
そして、資料として役に立つのは、しばしばデータのほうである。
データが開かれると、こういう作業ができる。
寸法で並べ替える。制作年で分布を見る。銘記の文字を検索する。
来歴の記述から、収集家の名前をたどる。
本連載でも、額込みの寸法を比べる回や、画家の帳簿と所蔵記録を突き合わせる回があった。
いずれも、データが機械で読める形で出ていなければ書けなかった記事である。
ライセンスは、一様ではない
もう一つ、実務的な注意を書いておく。
同じ館の中でも、権利の扱いが一様ではない。
たとえばシカゴ美術館の API は、返す情報のうち解説文だけを別扱いにしている。
解説文は表示義務のある条件で、その他のデータは権利主張なし——そう明記されている。
だから「あの館は自由」と一括りにはできない。
一件ごとに、その項目ごとに確認する必要がある。
当サイトが取り込みのたびに権利表示を保存しているのは、この事情による。
「あの館だから大丈夫」で進めると、いつか取り違える。
面倒でも、一点ごとに表示と日付を残しておく。あとで説明できる形にしておく。
手放していないものもある
まず、範囲の話をしておきたい。
当然だが、すべてが公開されているわけではない。
保護期間中の作品は、館が所蔵していても画像を自由には出せない。
権利は作者の死後、国によって定められた期間まで続く。
日本では現在70年である。国によって長さが違う点も、扱いを難しくしている。
作者が20世紀の後半に没している場合、権利は生きている。
また、寄贈の条件で公開が制限されている作品もある。
写真、映像、録音は、権利関係がさらに複雑になる。
だから開かれた画像の集まりは、収蔵品の全体像ではない。
古い平面作品に偏った、部分的な地図である。
この偏りは、見え方にも影響する。
自由に使える画像が多い分野は、記事にも展示にもよく登場する。
結果として「よく見る美術」の範囲が、権利の状態に左右される。
20世紀の美術がこの種の企画で扱いにくいのは、質の問題ではない。
権利の期間の問題である。