美術史・技法

作者の名が「散逸した写本の画家」である——インドの細密画九点

人名ではない。本の名と、その本が散り散りになった事実が、そのまま画家の呼び名になっている。題にも「散逸した」と書かれる。失われたものを二重に含んだ名前が、離れた一葉どうしをつなぐ糸になっている。作者の欄に紀元前の人名が入る一葉もある。

ナンダとヴァスデーヴァ
散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家《ナンダとヴァスデーヴァ》メトロポリタン美術館蔵

作者の名が、「散逸した写本の画家」である

メトロポリタン美術館の記録に、こういう作者名がある。

「散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家」。

人の名前ではない。

本の名前と、その本が散り散りになったという事実が、そのまま名になっている。

この呼び方は、美術史でよく使われる。

名前の分からない画家に、代表作の名を借りて呼び名を与える。

ここで珍しいのは、その代表作が「散逸した」と断られていることである。

もとは一冊の写本だった。

いまは一葉ずつ、世界のあちこちにある。

その事実が、画家の名の一部になっている。

ナンダとヴァスデーヴァ
散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家《ナンダとヴァスデーヴァ》1520年から1530年ごろ。館の記録では、紙にインクと不透明水彩。紙は縦17.8センチ、横23.8センチ。番号は1982.209。インド、デリーとアーグラの地域。メトロポリタン美術館蔵。散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家《ナンダとヴァスデーヴァ》メトロポリタン美術館蔵

画面は、上下二段に分かれている。

上の段には、六人ほどの人物が並ぶ。

赤い天蓋の下に座る人と、その前に立つ人たち。

下の段には、牛と、それを引く人がいる。

色は、赤、緑、青、黄が面で置かれている。

濃淡はほとんどない。

輪郭は黒く太い。

人物の目が大きく、横顔でも両目が見えるように描かれている。

そして、画面の右上に細い黒い帯がある。

そこに文字が入っていたはずである。

十六世紀のはじめ、インド北部で作られた写本の一葉である。

「散逸した」という語が、題に入る

九点のうち五点の題に、「散逸した」という語が入っている。

散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉。

散逸したラーマーヤナの一葉。

散逸したチャンダナ・マラヤギリ物語の一葉。

散逸したラシカプリヤーの一葉。

散逸したバーガヴァタ・プラーナの一葉。

いずれも、本の名の前にこの語が付いている。

つまり館は、その本がもう一冊としては存在しないことを、題に書いている。

これは、丁寧な書き方である。

「ギータ・ゴーヴィンダの一葉」とだけ書けば、いまも本があるように読める。

「散逸した」と書けば、そうではないと分かる。

一葉ずつが、別々の場所にある。

木陰のクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉
サーヒブディーン《木陰のクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉》1665年ごろ。館の記録では、紙にインクと不透明水彩。縦24.4センチ、横19.7センチ。番号は1988.103。インド、ラージャスターン、メーワール。メトロポリタン美術館蔵。サーヒブディーン《木陰のクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉》メトロポリタン美術館蔵

赤い枠が、画面を囲んでいる。

その内側に、夜の庭が描かれている。

上に細い月がかかり、まわりに星が点々と散る。

木々は、種類ごとに葉の形を変えて描き分けられている。

丸い葉、細い葉、赤い花の付いた枝。

左に、腰かけた二人。

右に、立っている一人。

地面には、白い花が並んでいる。

そして、画面の下は黒い帯になっている。

水面である。

その帯に、白い線で波が引かれている。

ギータ・ゴーヴィンダは、クリシュナとラーダーの物語を歌った詩である。

十二世紀に作られ、繰り返し絵に描かれてきた。

侍女たちとクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉
マノーハル《侍女たちとクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉》1655年から1660年ごろ。館の記録では、紙にインクと不透明水彩。画面は縦23.2センチ、横18.4センチ。紙は縦26センチ、横21.3センチ。番号は1985.398.12。メトロポリタン美術館蔵。マノーハル《侍女たちとクリシュナとラーダー、散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉》メトロポリタン美術館蔵

同じ詩の、別の写本の一葉である。

こちらは、上に文字の帯がある。

赤い枠の外側の上部に、細かい文字が三行ほど並んでいる。

画面は、やはり上下に分かれている。

上の段は橙色の地。

木が二本立ち、その下に人物が四人。

下の段は緑の地。

木が三本と、人物が三人。

そして中央に、白い建物のようなものがある。

色が、場面を仕切っている。

橙と緑という強い対比で、上下が別の場面だと示される。

寸法の欄が、この一葉では二段になっている。

画面と、紙。

画面は縦二三・二センチ、紙は縦二六センチ。

差の二・八センチが、文字の帯と余白である。

表と裏に、別の絵がある

散逸したチャンダナ・マラヤギリ物語の一葉
リカージー《散逸したチャンダナ・マラヤギリ物語の一葉》1749年。館の記録では、紙にインクと不透明水彩。縦28.9センチ、横20センチ。番号は1975.410.2のaとb。表と裏の両面が、一つの番号にまとめられている。メトロポリタン美術館蔵。リカージー《散逸したチャンダナ・マラヤギリ物語の一葉》メトロポリタン美術館蔵

この一葉には、表と裏の両方に絵がある。

そして、番号は一つである。

一九七五・四一〇の二の、aとb。

枝番でaが表、bが裏を指している。

前の回まで見てきた西洋の素描では、表と裏に別々の番号が付いていた。

こちらは、一つにまとめられている。

理由は、写本の葉だからだろう。

本の頁は、表と裏で一枚である。

一枚をばらして数えるという発想が、そもそも無い。

題も、両面ぶんがまとめて書かれている。

表には、上に隊商と商人、下に王が妃に真珠の首飾りを渡す場面。

裏には、川のほとりで薪を集める女性。

一つの題のなかに、三つの場面が並べられている。

画面を見ると、上下二段の構成である。

上の段は、馬と人と荷物。

下の段は、赤い地に人物が数人。

黄と赤の枠が、画面のまわりを囲む。

その枠には、蔓草の文様が描かれている。

年の欄には、二つの年が書かれている。

一七四九年と、それに対応するインドの暦の年。

暦が違えば、年の数え方も違う。

館は両方を並べて書いている。

同じ物語の、二つの写本

薬草でラーマとラクシュマナを蘇生させるハヌマーン、散逸したラーマーヤナの一葉
ナインスク《薬草でラーマとラクシュマナを蘇生させるハヌマーン、散逸したラーマーヤナの一葉》1790年ごろ。館の記録では、紙にインクと不透明水彩。縦25.2センチ、横35.4センチ。番号は1987.424.13。インド、パンジャーブ丘陵、グレール。メトロポリタン美術館蔵。ナインスク《薬草でラーマとラクシュマナを蘇生させるハヌマーン、散逸したラーマーヤナの一葉》メトロポリタン美術館蔵

横長の一葉である。

縦二五・二センチ、横三五・四センチ。

上に、青い枠と細い文字の帯。

画面には、緑の丘が横に連なっている。

その上に、大勢の人物と猿が集まっている。

倒れている二人のそばに、猿の姿が寄り添う。

丘の色は、手前が濃い緑、奥が薄い緑。

奥に、岩の山が二つ立つ。

そして空は、水色である。

前に見た二点の平面的な色面とは、ずいぶん違う。

奥行きがあり、色が段階的に変わる。

十八世紀の終わり、パンジャーブ丘陵の絵である。