作者の名が「散逸した写本の画家」である——インドの細密画九点
人名ではない。本の名と、その本が散り散りになった事実が、そのまま画家の呼び名になっている。題にも「散逸した」と書かれる。失われたものを二重に含んだ名前が、離れた一葉どうしをつなぐ糸になっている。作者の欄に紀元前の人名が入る一葉もある。

作者の名が、「散逸した写本の画家」である
メトロポリタン美術館の記録に、こういう作者名がある。
「散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家」。
人の名前ではない。
本の名前と、その本が散り散りになったという事実が、そのまま名になっている。
この呼び方は、美術史でよく使われる。
名前の分からない画家に、代表作の名を借りて呼び名を与える。
ここで珍しいのは、その代表作が「散逸した」と断られていることである。
もとは一冊の写本だった。
いまは一葉ずつ、世界のあちこちにある。
その事実が、画家の名の一部になっている。

画面は、上下二段に分かれている。
上の段には、六人ほどの人物が並ぶ。
赤い天蓋の下に座る人と、その前に立つ人たち。
下の段には、牛と、それを引く人がいる。
色は、赤、緑、青、黄が面で置かれている。
濃淡はほとんどない。
輪郭は黒く太い。
人物の目が大きく、横顔でも両目が見えるように描かれている。
そして、画面の右上に細い黒い帯がある。
そこに文字が入っていたはずである。
十六世紀のはじめ、インド北部で作られた写本の一葉である。
「散逸した」という語が、題に入る
九点のうち五点の題に、「散逸した」という語が入っている。
散逸したギータ・ゴーヴィンダの一葉。
散逸したラーマーヤナの一葉。
散逸したチャンダナ・マラヤギリ物語の一葉。
散逸したラシカプリヤーの一葉。
散逸したバーガヴァタ・プラーナの一葉。
いずれも、本の名の前にこの語が付いている。
つまり館は、その本がもう一冊としては存在しないことを、題に書いている。
これは、丁寧な書き方である。
「ギータ・ゴーヴィンダの一葉」とだけ書けば、いまも本があるように読める。
「散逸した」と書けば、そうではないと分かる。
一葉ずつが、別々の場所にある。

赤い枠が、画面を囲んでいる。
その内側に、夜の庭が描かれている。
上に細い月がかかり、まわりに星が点々と散る。
木々は、種類ごとに葉の形を変えて描き分けられている。
丸い葉、細い葉、赤い花の付いた枝。
左に、腰かけた二人。
右に、立っている一人。
地面には、白い花が並んでいる。
そして、画面の下は黒い帯になっている。
水面である。
その帯に、白い線で波が引かれている。
ギータ・ゴーヴィンダは、クリシュナとラーダーの物語を歌った詩である。
十二世紀に作られ、繰り返し絵に描かれてきた。

同じ詩の、別の写本の一葉である。
こちらは、上に文字の帯がある。
赤い枠の外側の上部に、細かい文字が三行ほど並んでいる。
画面は、やはり上下に分かれている。
上の段は橙色の地。
木が二本立ち、その下に人物が四人。
下の段は緑の地。
木が三本と、人物が三人。
そして中央に、白い建物のようなものがある。
色が、場面を仕切っている。
橙と緑という強い対比で、上下が別の場面だと示される。
寸法の欄が、この一葉では二段になっている。
画面と、紙。
画面は縦二三・二センチ、紙は縦二六センチ。
差の二・八センチが、文字の帯と余白である。
表と裏に、別の絵がある

この一葉には、表と裏の両方に絵がある。
そして、番号は一つである。
一九七五・四一〇の二の、aとb。
枝番でaが表、bが裏を指している。
前の回まで見てきた西洋の素描では、表と裏に別々の番号が付いていた。
こちらは、一つにまとめられている。
理由は、写本の葉だからだろう。
本の頁は、表と裏で一枚である。
一枚をばらして数えるという発想が、そもそも無い。
題も、両面ぶんがまとめて書かれている。
表には、上に隊商と商人、下に王が妃に真珠の首飾りを渡す場面。
裏には、川のほとりで薪を集める女性。
一つの題のなかに、三つの場面が並べられている。
画面を見ると、上下二段の構成である。
上の段は、馬と人と荷物。
下の段は、赤い地に人物が数人。
黄と赤の枠が、画面のまわりを囲む。
その枠には、蔓草の文様が描かれている。
年の欄には、二つの年が書かれている。
一七四九年と、それに対応するインドの暦の年。
暦が違えば、年の数え方も違う。
館は両方を並べて書いている。
同じ物語の、二つの写本

横長の一葉である。
縦二五・二センチ、横三五・四センチ。
上に、青い枠と細い文字の帯。
画面には、緑の丘が横に連なっている。
その上に、大勢の人物と猿が集まっている。
倒れている二人のそばに、猿の姿が寄り添う。
丘の色は、手前が濃い緑、奥が薄い緑。
奥に、岩の山が二つ立つ。
そして空は、水色である。
前に見た二点の平面的な色面とは、ずいぶん違う。
奥行きがあり、色が段階的に変わる。
十八世紀の終わり、パンジャーブ丘陵の絵である。