美術史・技法

舞台の顔は、誰のものか——写楽と勝川派の役者絵

見得を、紙に固定する

役者絵が描くのは、たいてい見得の瞬間である。

見得とは、芝居の山場で動きを止め、姿勢を決めて見せる型のことだ。

観客が拍手する場所であり、絵になる場所でもある。

市川團十郎の暫
勝川春好《市川團十郎の暫》1786年ごろ。巨大な赤い衣に、三升の紋。太刀を差し、隈取をした顔で見得を切る。勝川春好《市川團十郎の暫》メトロポリタン美術館蔵

《暫》は、市川家が得意とした荒事の代表的な演目である。

見てのとおり、衣裳が異常に大きい。画面の下半分が、赤い衣の面積で埋まっている。

そこに白い四角が三重に描かれている。市川家の紋、三升である。

顔には赤い線が何本も引かれている。隈取という化粧で、血管や筋肉の隆起を誇張して示す。

つまり、この顔は素顔ではない。役の顔である。

市川門之助の暫
勝川春好《市川門之助の暫》1780年。同じ演目の別の役者。衣裳の型は共通し、顔だけが違う。勝川春好《市川門之助の暫》メトロポリタン美術館蔵

同じ演目を、別の役者が演じた版画も残っている。

衣裳の形も、姿勢の型も、ほとんど同じである。違うのは顔と紋だけだ。

ここに役者絵の構造がよく出ている。型は共有され、顔だけが個人に属する

隈取の色には、意味がある

隈取について、もう少し書いておきたい。

線の色には約束がある。赤は正義と勇気、あるいは若さと血気を示す。青みがかった藍は、悪役や、この世のものでない者に使う。

茶色は鬼や妖怪に使われることが多い。

つまり顔の色を見れば、その人物が味方か敵かが分かる。

これは記号の体系である。広重が雨を線で描いたのと、構造としては同じだ。約束を共有していれば、説明なしに伝わる。

紋も同じ働きをする。市川家の三升、尾上家の重ね扇に抱き柏、中村家の角切銀杏。

衣裳や小道具に紋を入れておけば、顔が小さくても誰か分かる。三枚続きの遠くの人物でも、紋なら判別できる。

役者の家には、代々受け継がれる名前もある。二代目、三代目と数字が付くのはそのためだ。名前を継ぐと、芸も役柄も引き継ぐことが期待される。

だから役者絵の題名は長くなる。「二代目中村仲蔵の惟高親王」のように、代数と役名を両方入れないと特定できないからである。

舞台の外の顔も、売られた

役者絵が描いたのは、舞台の上だけではない。

八代目森田勘弥の河内官者、玄海坊に扮す
東洲斎写楽《八代目森田勘弥の河内官者、玄海坊に扮す》1794〜95年。細判の全身像。二重の変装を、二つの顔で示している。東洲斎写楽《八代目森田勘弥の河内官者、玄海坊に扮す》メトロポリタン美術館蔵

この一枚は、少し複雑である。

役者が演じているのは、ある人物が別人に変装している場面だ。つまり変装の中の変装である。

画面では、黒い僧形の衣に、白い衣を重ねている。そして背中側に、もうひとつ顔が描かれている。

これは面か、あるいは背負った作り物だろう。ひとつの画面に二つの顔があることで、変装という設定が視覚化されている。

芝居の筋を知らなければ、何が起きているのか分からない。それでも当時の観客には通じた。

役者絵は、芝居を見た人の記憶を呼び起こす装置でもあった。単独で完結する絵として作られていない。

女形の顔を、どう描くか

もうひとつ、難しい問題がある。女形である。

歌舞伎では女性の役も男性が演じる。その顔を、絵師はどう描くべきか。

二代目瀬川富三郎の芸者浅香
東洲斎写楽《瀬川富三郎の芸者浅香》1794〜95年。細判の全身像。花の枝を持ち、格子窓の前に立つ。東洲斎写楽《二代目瀬川富三郎の芸者浅香》メトロポリタン美術館蔵

写楽が描いた女形の一枚である。

姿勢は柔らかく、着物の裾は長く引かれている。手にした枝には白い花がついている。

顔は、女性として描かれている。細い目、小さな口、白い肌。

しかし顎の線はやや角ばり、首も太い。完全に女性として描いてはいない。

中村野塩の遊女おかる
勝川春英《中村野塩の遊女おかる》1795年4月。同じく女形。こちらは大判で、上半身を大きく取る。勝川春英《中村野塩の遊女おかる》メトロポリタン美術館蔵

春英の描いた女形も同じである。女性らしい仕草と衣裳の中に、男性の骨格が残っている。

これは技量の問題ではない。観客が知っているのは「女を演じている男」だからである。

完全に女性に見えてしまえば、誰が演じているか分からない。それでは商品として成立しない。

似顔でありながら、役として成立させる。役者絵の絵師は、この両立を毎回要求されていた。

判型と、売り方

版型の話もしておきたい。

役者絵には、いくつかの決まった大きさがある。

細判は縦30センチ、横14センチほどの細長い判である。全身を入れるのに向く。二枚、三枚と並べて売ることも多い。

大判は縦38センチ、横25センチほど。大首絵はこの判型で作られた。

三枚続きにすれば、舞台の一場面をまるごと収められる。先ほどの春章の作品がそれである。

つまり判型の選択は、何を売りたいかで決まる。場面を売るなら三枚続き、顔を売るなら大首絵。

大首絵という発想そのものが、比較的新しかった。

十八世紀の後半まで、人物は全身で描くのが当たり前だった。衣裳も姿勢も、全身がないと分からないからである。

そこを思い切って切り、胸から上だけにする。情報量は減るが、顔の面積は何倍にもなる。

美人画の分野では喜多川歌麿が、役者絵では写楽が、この判型で知られている。どちらも同じ版元が手がけた企画だった。

顔を大きく見せることに商品価値がある、という判断が、この時期に共有されたのだろう。

現代の広告で顔の寄りが多用されるのと、発想としては変わらない。

摺りの手間は、値段に出る

技法の面も見ておきたい。

雲母摺は、糊を引いた版に雲母の粉を撒いて摺る技法である。光の角度で背景がきらめく。

材料費も工程も増えるので、当然ながら高くつく。企画としては勝負手である。

一方、細判の量産品はもっと簡素で、色数も少ない。同じ役者絵でも、価格帯がいくつもあったことになる。

摺りの工程と、同じ版でも一枚ごとに違う絵になる事情については、別のコラムで詳しく扱っている。

役者絵も例外ではない。いま残っている一枚が、当時の見え方をそのまま伝えているとは限らない。

規制という条件

もうひとつ、忘れてはならないのが出版規制である。

1790年前後から、幕府は出版物への統制を強めた。奢侈を戒め、風俗を取り締まる方針である。

役者絵と美人画は、この規制の直撃を受けた分野だった。

役者や遊女の名前を絵に記すことが禁じられた時期がある。名前を書けなければ、誰の顔か示せない。

絵師たちは、判じ物のような形で名前を暗示したり、紋や俳名で示したりして対応している。

このころ風景版画が伸びていく背景には、規制を受けにくい主題だったという事情もある。その話は別のコラムで扱っている。