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印象派の前に立っていた三人——ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》、コロー、クールベ

光と時刻のこと

コローの三枚を、時刻という点から見比べたい。

《フォンテーヌブロー》では、光は木の葉のあいだから落ちる。

影は複雑で、地面に斑をつくる。昼に近い時間だと考えられる。

《ヴォルテッラ近郊の眺め》では、影が短く、光が強い。

乾いた空気のなかの、日中の景色である。

《村の通り——ダルダニー》では、建物の壁に濃い影が落ちる。

太陽の位置が低い。朝か夕方に近いと読める。

同じ画家が、同じ狭い色幅のまま、時刻を描き分けている。

派手な色を使わずに時間を示す。ここに技術がある。

のちの印象派は、この課題を別の方法で解いた。

色そのものを変えることで、時刻と天候を示した。

問題は共通し、解き方が違う。

そう考えると、世代の断絶は思ったほど大きくない。

石と水を、そのまま描いた人

三人目はクールベである。

オルナンの眺め
ギュスターヴ・クールベ《オルナンの眺め》1850年代半ばか。油彩・画布。メトロポリタン美術館蔵。ギュスターヴ・クールベ《オルナンの眺め》メトロポリタン美術館蔵

低い丘と、その下に広がる緑の平地。

画面の下部には木立と建物が並ぶ。

空は白く曇り、光は弱い。

オルナンはフランス東部の町で、クールベの生まれた場所である。

彼は生涯にわたって、この土地の岩と川と森を描いた。

観光地でも名所でもない。自分の育った土地である。

そのことを、彼は隠さなかった。

もう一枚、洞窟の絵を見たい。

ルーの洞窟
ギュスターヴ・クールベ《ルーの洞窟》1864年。油彩・画布。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。ギュスターヴ・クールベ《ルーの洞窟》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

画面の大半を、岩の壁が占める。

洞窟の口が黒く開き、その下から水が流れ出る。

水面は暗く、岩肌は灰と褐色。緑の苔がわずかに光る。

人はいない。物語もない。

あるのは岩と水と、そこにたまった暗がりだけである。

この絵の絵具は厚い。

パレットナイフで置かれた部分があり、表面に凹凸が残る。

筆で描くのではなく、絵具の塊を置いて岩を作る。

対象の質感を、絵具そのものの質感で示す方法である。

クールベについては、別のコラムでも扱った。

さらに二枚、水辺の絵を見ておきたい。

林間の小川(「フォンクヴェルトの谷の小川、習作」の可能性)
ギュスターヴ・クールベ《林間の小川(「フォンクヴェルトの谷の小川、習作」の可能性)》おそらく1862年。油彩・画布。メトロポリタン美術館蔵。ギュスターヴ・クールベ《林間の小川(「フォンクヴェルトの谷の小川、習作」の可能性)》メトロポリタン美術館蔵

木立に囲まれた小川である。

水は浅く、川底の石が見える。

木の幹は暗く、葉は密である。光は上からわずかに落ちる。

森のなかの、名前のない場所。

アンドル県のラ・ブルトヌリー
ギュスターヴ・クールベ《アンドル県のラ・ブルトヌリー》1856年。油彩・画布。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。ギュスターヴ・クールベ《アンドル県のラ・ブルトヌリー》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

こちらは明るい。緑の草地に木立が並び、手前に水がたまる。

空は青く、雲が白い。遠くに塔らしい建物が立つ。

同じ画家の絵とは思えないほど、色調が違う。

しかし、対象の扱い方は同じである。

理想化しない。整えない。目の前の土地をそのまま画面に置く。

名前のない場所を描く

クールベの絵には、名所が少ない。

洞窟、小川、森の斜面。いずれも案内書に載る場所ではない。

《林間の小川》の題名にも「習作の可能性」という但し書きが付く。

どこを描いたのか、記録が一つに定まらないためである。

これは資料上の不備というより、主題の性格を示している。

特定できるほど有名な場所ではない、ということである。

19世紀前半の風景画では、場所の同定が重視された。

古代の遺跡や、由緒ある城や、名高い滝。

そうした対象を描けば、絵は説明を持つ。

クールベはその説明を外した。

残るのは、岩と水と光だけである。

主題から物語を抜いていくこの方向は、のちの絵画に受け継がれた。

セザンヌが同じ山を何十回も描いたのも、その延長にある。

描く対象は、有名でなくてよい。

見るに値するかどうかを決めるのは、画家の目である。

絵具の置き方を、比べる

三人の絵を、絵具の置き方という一点で比べてみたい。

ミレーの《七面鳥の群れのいる秋の風景》では、絵具は薄い。

色を重ね、擦り込むように置かれている。

だから画面は落ち着き、光は鈍く広がる。

コローの《フォンテーヌブロー》では、葉の部分に細かい筆が集中する。

一方、空は大きな筆でならされている。

部分によって筆の細かさを変える。これは古典的な作法である。

クールベの《ルーの洞窟》では、絵具が厚い。

塊として置かれ、表面に凹凸が残る。

岩を描くのに、岩のような絵具の面を作る。

三者三様である。そしてこの違いは、写真では分かりにくい。

展示室で斜めから画面を見ると、厚みの差が見える。

同じ「風景画」という言葉でくくられていても、手つきはまるで違う。

三人が渡したもの

ここまで九点を並べてきた。すべて当サイトで公開している作品である。

権利表示を作品ごとに確認したうえで扱っている。名古屋の出品作とは別である。

そのうえで、三人が次の世代に渡したものを整理したい。

第一に、屋外で描くという習慣である。

コローもクールベも、現場で描いた習作を多く残している。

第二に、身近な土地を主題にしてよいという考えである。

神話の舞台でなくてよい。生まれた村でも、森の小川でもよい。

第三に、働く人を主題にしてよいという考えである。

ミレーの農民像は、そのもっとも明確な例である。

この三つが揃ってはじめて、印象派の川辺の絵が成立する。

アルジャントゥイユの休日も、アニエールの水浴も、この延長線上にある。

そしてゴッホは、ミレーを繰り返し模写した画家でもある。

暗い色で農民を描いた時期の彼は、ミレーの延長にいた。

つまり名古屋の展覧会は、ゴッホの《跳ね橋》を核にしながら、
その手前にある系譜も見せる構成になっていると考えられる。

秋に展示室へ行ったら、制作年を確かめてほしい。

1830年代の絵と、1880年代の絵が、同じ部屋に並ぶかもしれない。

そのあいだの50年に、何が変わり、何が変わらなかったか。

色は明るくなった。筆は速くなった。

だが、身近な土地を描くという態度は変わっていない。

変わらなかったものを見つけるのも、展覧会の楽しみである。

新しさばかりを追う見方では、こぼれ落ちるものがある。

三人の絵は、その受け皿になってくれる。

なお会期と料金、休館日は変わることがある。

来場前に、名古屋市美術館の公式サイトで確かめてほしい。

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