都市は、毎日が興行——ジョージ・ベローズ
問い——なぜ、それを描くのか
ここで問いを立てたい。
なぜベローズは、こんなものばかり描いたのか。
裏路地のボクシング。川で泳ぐ貧しい子どもたち。
どれも当時の「美しい絵」の主題ではない。買い手がつく保証もない。
現に批判もされた。それでも、やめなかった。
答えは、師の教えにある。芸術は生活から。
ならば、20世紀初頭のニューヨークの生活とは何だったか。
それは、都市そのものが猛烈な速さで変わっていく光景だった。
地下鉄が掘られ、橋が架かり、古い家々が壊されていく。
泳ぐ子ども、殴り合う男、掘られる街。
別々の主題に見えて、同じ一つの都市の断面である。
どの画面にも、生きて動く人間がいる。それが選択の基準だった。
ベローズは次に、その工事現場へ向かう。
湯気の向こうの、大きな穴

青い朝である。
手前に高架の鉄骨が立ち、黒い額縁のように画面を区切る。
その向こうに、巨大な掘削現場が広がる。
ペンシルベニア駅の建設である。1904年から1910年にかけて、街の一角が丸ごと掘り返された。
朝の空は青く、掘り下げられた地面も青い影に沈む。
白い湯気がひとかたまり、光を受けて立ちのぼる。
作業員の姿は、点のように小さい。
人が小さいのではない。穴が大きいのである。
人の手で掘ったとは思えない窪みが、街の真ん中に口を開けていた。
鉄骨の額縁越しに覗くと、工事は一つの舞台に見えてくる。
通勤の朝、高架の下で足を止めて、穴を眺める。
そんな一瞬の視線を、そのまま構図にした絵だろう。
ベローズはこの現場を、何度も描いたと伝えられる。
完成した駅ではなく、掘りかけの穴を描く。
都市の名所ではなく、名所になる前の汗を描く。
それ自体が、新しいことだった。
題は《青い朝》。工事の絵に、こんなに澄んだ題をつける。
埃と騒音の現場に、ベローズは色の美しさを見ていた。
工事の絵は、記録であると同時に風景画である。その両立が、この画家の腕だった。
取り壊しを免れた、一棟
同じ1909年、対になるような一枚がある。

巨大な橋のたもとに、褐色のアパートが一棟だけ立つ。
周りの建物は取り壊された。この一棟だけが、まだ残っている。
煙突からは細い煙。まだ人が住んでいるのだろう。
橋脚は画面の上へ、絵の外まで伸びる。人の暮らしを見下ろす、新時代の柱である。
その足元の空き地では、人々が焚き火を囲む。
川には蒸気船が煙を引き、空には鳥の群れが舞う。
冬の低い光が、橋の下から差し込む。
巨大な影の中に、小さな暮らしの火が灯っている。
題は《ひとり残った安アパート》。建物を人のように呼ぶ、さびしい題である。
新しい橋と、消えていく暮らし。
その境目の一瞬を、ベローズは絵にした。都市改造の時代の、記録である。
取り壊される側に立つのでも、橋を讃えるのでもない。
両方を一枚に収めて、判断は見る者に委ねられている。
一枚に圧縮された都市

そして1911年、題はずばり《ニューヨーク》である。
荷馬車、電車、群衆、看板、そびえる建物。交差点に、都市のすべてがひしめく。
実はこれは、特定の場所ではないと伝えられる。
いくつもの街角を組み合わせ、都市の全部を一枚に圧縮した画面だという。
つまりこれは、写生ではなく、画室で組み立てられた都市である。
所蔵館の記録によれば、画布の裏には画家の手で題と画室の住所が記されている。
看板の文字は、一つひとつは読めないほど速い筆で書かれる。
読めないのに、街の騒がしさだけは伝わってくる。
細部を捨てて、印象を残す。速い筆の使いどころである。
歩く人は誰も立ち止まらない。画面のどこにも、視線の休む場所がない。
風景画は普通、どこかに目の休み場を作るものである。
ベローズはそれを、わざと作らなかったのだと考えられる。
都市の絵は、都市のように疲れなければ嘘になる。
見ているだけで、少し疲れる。その息苦しさこそが、この絵の主題だろう。
速い筆は、速い都市のために
ベローズの筆は速い。絵具は厚く、ときに塗り込めるように置かれる。
近づくと筆の跡ばかりが見える。離れると、それが群衆になる。
筆の速さは、乱暴とは違う。狙って外さないための速さである。
色は暗い。褐色と黒が画面を支え、そこに雪や湯気や肌の白が差す。
暗い都市の中で、白はいつも、生きているものの側にある。
理由は単純だと考えられる。動く都市は、待ってくれないからである。
ポーズを取ってくれる少年はいない。工事現場は日ごとに姿を変える。
じっくり仕上げる時間はない。速さそのものが、様式になった。
一方で、構図は意外なほど計算されている。
《青い朝》の鉄骨の額縁も、《ニューヨーク》の圧縮も、即興ではない。
速い筆と、遅い設計。この組み合わせがベローズである。
同じアメリカに、身体と運動を科学のように見つめた先人がいた。
エイキンズの解剖と写真である。
エイキンズは解剖と写真で、動く身体を止めて調べた。
ベローズは逆に、筆の速さで身体を走らせた。
動く身体という同じ主題への、二つの答えである。