画家を知る

植民地の独学者が、王の画家になる——ベンジャミン・ウェスト

海戦を、舞台のように

国王の画家となった時期の大作を見たい。

ラ・オーグの海戦
ベンジャミン・ウェスト《ラ・オーグの海戦》1778年。油彩・画布。縦152.7センチ、横214センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ベンジャミン・ウエスト《ラ・オーグの海戦》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

1692年、英蘭艦隊がフランス艦隊を破った海戦である。

画面では、煙の下で小艇がぶつかり合い、兵が斬り結び、溺れる者が舷にすがる。

右には金の装飾を持つ軍艦の艦尾がそびえ、遠景では船が燃えている。

86年前の戦いを、ウェストは見てきたように組み立てた。

当然、本人は見ていない。生まれる46年も前の戦いである。

軍艦の装飾、軍服、旗。細部は資料と想像で補われている。

それでも画面の熱は本物に見える。ここが歴史画の技術の核心である。

小艇の舳先に「B. West 1778」の署名がある。所蔵館の記録が銘記として書き留めている。

歴史画とは、こういう仕事である。

資料を集め、人体を組み、感情の頂点を一場面に凝縮する。

肖像画が「その人らしさ」を売るのに対し、歴史画は「物語の真実らしさ」を売る。

18歳のころの硬い腕は、ここでは劇場の演出家の腕に変わっている。

とはいえ、これは報道画ではない。

構図の重心、人物の受け渡し、雲の明暗。すべてが劇として設計されている。

海戦の記録としてではなく、愛国の舞台として見るのが正しい絵である。

見る側は、その演出込みで歴史を受け取ることになる。

歴史画の力と危うさは、常にこの一点にある。

影の中に、もう一人いる

同じ時期の肖像に、この記事で最も注意深く見たい一枚がある。

ガイ・ジョンソン大佐とカロンギョンティエ(デイヴィッド・ヒル大尉)
ベンジャミン・ウェスト《ガイ・ジョンソン大佐とカロンギョンティエ(デイヴィッド・ヒル大尉)》1776年。油彩・画布。縦202センチ、横138センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ベンジャミン・ウエスト《ガイ・ジョンソン大佐とカロンギョンティエ(デイヴィッド・ヒル大尉)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

手前に座るのは、英国の先住民担当官ガイ・ジョンソン。

赤い上着に黒い外套、手には帽子と銃。

その背後、影の中にモホークの外交官カロンギョンティエが立つ。

羽根の頭飾りを着け、手は平和の煙管を指す。

左奥には滝と、野営の焚き火を囲む小さな人影が描かれている。

この絵は独立戦争が始まった年、英国とモホークの同盟関係を背景に描かれた。

ジョンソンは英国側の先住民政策の要職に就いたばかりだった。

就任を記念する公式の肖像として注文されたと考えられている。

つまりこれは、個人の記念であると同時に、帝国の広報でもある。

構図は雄弁である。光の中の官吏と、影の中の同盟者。

同盟を語る絵でありながら、二人の扱いは対等ではない。

長くこの絵は、ジョンソン一人の肖像として呼ばれてきた。

現在の所蔵館の題名は、カロンギョンティエの名を併記する形に改められている。

デイヴィッド・ヒルという英語名も併記された、実在の人物である。

描かれ方の不均衡は、絵が作られた時代の記録として残る。

名前の回復は、それを見る現代の側の仕事である。

細部も見ておきたい。ジョンソンの膝の上の帽子、外套の房飾り。

カロンギョンティエの衣は銀の腕輪と赤い布を含み、儀礼の装いである。

背景の滝と焚き火は、北米の土地を示す記号として置かれている。

ロンドンの画室で、北米の同盟が演出されたのである。

縦202センチの画面は、公的な場に掛けるための格式を備えている。

モデルの一人カロンギョンティエは、モホークの指導者の家系に属し、
英語名デイヴィッド・ヒルとして記録に残る実在の外交官である。

彼自身がこの絵をどう見たかは、記録に残っていない。

残っていない、という事実も含めて、この絵の記録である。

当サイトでは、この種の絵を美化も断罪もせず、
描かれた事情ごと読む対象として扱っている。

このあたりの事情は、記録としての絵の限界
扱った問題と地続きである。

王のための旧約

国王の庇護は、壮大な計画に発展する。

楽園追放
ベンジャミン・ウェスト《楽園追放》1791年。油彩・画布。縦186.8センチ、横278.1センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ベンジャミン・ウエスト《楽園追放》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

横2.8メートルに近い大画面である。

白い衣の天使が空中から迫り、アダムとエバが身を縮めて楽園を出る。

空は嵐、足元には蛇。右では鷲が鳥を襲い、左では獅子が馬を追う。

楽園の外の世界が、弱肉強食の風景として先取りされている。

画面には「B. West / 1791」の署名が残る。

この時期、ウェストは国王の礼拝堂を飾る大規模な聖書連作に取り組んでいたと伝えられる。

計画自体は完成しなかったが、この種の大画面はその文脈で描かれている。

植民地の宿屋の子が、王室の宗教画を任される。

18世紀のロンドンで、これがどれほど例外的な出世だったかは強調してよい。

計画は「啓示された宗教の礼拝堂」と呼ばれ、数十点規模の連作構想だったと伝えられる。

聖書の歴史全体を、一つの建物の壁で語り切る構想である。

王の代替わりと政治の変化で頓挫したが、
ウェストは生涯この主題群に手を入れ続けた。

《楽園追放》の黒い嵐とうねる獣たちには、
次の世紀のロマン主義を先取りするような激しさがある。

礼拝堂の絵として見るか、崇高趣味の絵として見るか。

一枚の大画面が、二つの時代にまたがっている。