表に金、裏に金なし——狩野派、英一蝶ほか両面のある屏風
一面だけになった屏風の、行方
南啓宇の一面について、もう少し書いておきたい。
朝鮮の屏風には、面ごとに独立した絵を描くものが多い。
花鳥を一面に一種ずつ描き、八面や十面を並べる。
こういう作りだと、一面だけを外しても絵として成立する。
牡丹と蝶の一面は、それだけで一つの画面になっている。
構図が、面の中で完結している。
これが、日本の六曲屏風との大きな違いである。
六曲屏風では、絵が面をまたいで続く。
一面だけ外せば、絵が切れる。
だから、外しにくい。
面ごとに完結していれば、外しやすい。
外しやすい形式は、ばらけやすい。
そして、ばらけたものが一件として記録される。
分類の欄の「屏風の一面」という語は、その結果である。
もとの屏風が何面だったかは、書かれていない。
残りの面がどこにあるかも、分からない。
石の模様を、絵として見る
阮元の一件について、もう少し書いておきたい。
大理石の模様を鑑賞するという習慣は、中国で長く続いた。
石を切り、断面に現れた模様を見る。
山に見えるもの、雲に見えるもの、水に見えるもの。
そこに題を付け、枠に嵌める。
つまり、描いていないものを絵として扱う。
作者の欄に名があるのは、模様を選んで枠に収めた人か、文字を刻んだ人だろう。
館の記録は、そのどちらとも書いていない。
作者の欄に、一七六四年から一八四九年という生没年だけがある。
そして分類は家具である。
絵ではないから、絵画の分類には入らない。
しかし、鑑賞の対象としては絵に近い。
分類の欄と、実際の扱いのあいだに、ずれがある。
こういうずれは、目録にはよくある。
一つの物を、一つの分類に入れなければならないからである。
入れた瞬間に、別の性格は見えにくくなる。
用途が変われば、分類も変わる
九点を通して見ると、一つのことが分かる。
屏風という形式は、変わりやすい。
両面に絵を持ち、面を外され、別の形に仕立て直される。
そして、机の上のものが壁に掛けられる。
そのたびに、記録の欄が書き換わる。
分類が「屏風」から「屏風の一面」になる。
あるいは「家具」になる。
前の回に見た掛軸や巻子でも、仕立て直しはあった。
しかし、屏風の場合はもっと大きい。
面の数が変わる。
置き方が変わる。
見える面が変わる。
それでも、館の記録は変化のあとを消さない。
「壁掛けに改められたもの」と題に書く。
「表」「裏」と題に書き分ける。
技法の欄を、面ごとに分けて書く。
白黒の写真が、残っている
狩野派の一件だけ、公開画像が白黒である。
他の八点は、すべて色が付いている。
これは、撮影の時期の差だろう。
一九二五年に受け入れられた一件である。
古い時期に撮った写真が、そのまま使われている。
白黒だと、技法の欄の情報が確かめられない。
「表は墨と彩色と金」と書かれていても、金がどこにあるか分からない。
そもそも、写っているのが表か裏かも、色からは判断できない。
題の書き方と、写っているものを照らし合わせて推測するしかない。
もっとも、白黒だから見えるものもある。
墨の濃淡が、はっきりする。
色に邪魔されずに、線の強弱が読める。
建物の輪郭も、岩の面も、白黒のほうがよく分かる。
古い写真には、そういう良さもある。
館が撮り直していないのは、優先度の問題だろう。
いつか撮り直されるかもしれない。
そのときには、表の松も公開されるかもしれない。
記録は、まだ完成していない。
記録は、こういう小さな差を積み重ねて残していく。
そして、積み重ねた差が、あとから読む人の手がかりになる。
裏側を、誰が見るのか
両面に絵のある屏風について、もう少し考えたい。
屏風を部屋の隅に立てれば、裏は壁を向く。
誰も見ない。
部屋の中央に立てれば、両側から見える。
つまり、両面に絵があるかどうかは、置き方の想定を示している。
英一蝶の一双は、両面に絵がある。
しかも、表は舞楽の場面、裏は唐獅子。
どちらも見せるための絵である。
部屋を仕切って使うことが、はじめから想定されていたのだろう。
一方、狩野派の二曲では、表に金があり、裏に金がない。
こちらは、表を主とする作りである。
裏は、見えることもある程度の扱いになっている。
材料の差が、置き方の想定を映している。
そして館は、その差を技法の欄に残した。
「表は墨と彩色と金、裏は墨と彩色」。
短い一行だが、屏風がどう使われたかまで含んでいる。
二曲と六曲の、あいだ
前の回に六曲一双を見て、今回は二曲を見た。
この二つは、用途がまるで違う。
六曲一双は、部屋の一辺を占める。
七メートルの絵になる。
二曲は、部屋の一部を仕切る。
一メートル半から二メートルほどである。
そして、絵の作りも変わる。
六曲一双では、景色が横に展開する。
二曲では、一つのものを大きく置く。
柿の木が一本。岩と波。猿が二匹。朝顔の蔓。
主題が単純になる。
これは、面の数が少ないぶん、横に展開できないからだろう。
形式の大きさが、描けるものを決めている。
同じ屏風という語で呼ばれていても、六曲と二曲は別の道具である。
館の分類の欄は、どちらも「屏風」とだけ書く。
面の数は、技法の欄に書かれる。
だから、技法の欄を読まないと、どちらの道具か分からない。
見えている面と、見えていない面
最後に、単位の話に戻したい。
両面に絵のある屏風は、一件のなかに二つの絵を持っている。
そして、公開されている画像は一面ぶんである。
英一蝶の一件では、裏の獅子が写っている。
表の舞楽は写っていない。
狩野派の一件では、裏の山水らしい面が写っている。
表の松は写っていない。
つまり、二つのうち一つしか見えない。
しかも、見えているのは裏のほうである。
これは偶然かもしれないし、撮影の都合かもしれない。
いずれにせよ、題の書き方を読まなければ、どちらを見ているのか分からない。
《松(表)、山水(裏)》。
この短い題が、いま見ている面がどちらかを教えてくれる。
一件のなかに、見えている面と見えていない面がある。
そのことを示すのは、題と技法の欄だけである。
残っているのは、一面と、その分類の欄だけである。
そして分類の欄は、失われた面の存在を示し続けている。










