画家を知る

空だけを、描く練習——ウジェーヌ・ブーダン

働く海も、描いている

ただし、彼が描いたのは行楽の海だけではない。

トロール漁船
《トロール漁船》1885年。板に油彩。縦18.4センチ、横26.4センチ。手のひらほどの画面に、係留された漁船と起重機の腕。ウジェーヌ・ブーダン《トロール漁船》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

働く港を描いた小品もある。

左から中央にかけて、帆柱が林立している。細い線が何本も垂直に立ち、その間を斜めの索が渡る。

中央には、起重機らしい太い腕が斜めに突き出している。

右には黒い煙突。そこから灰色の煙が上がる。

手前は干潟か岸壁で、褐色と灰と黄土の絵具が乾いた筆で置かれている。

人物は数人。青と黄の小さな点として散っている。

画面は18センチ×26センチ。文庫本ほどの大きさしかない。

この寸法に、これだけの情報が詰め込まれている。

右下に「E. Boudin 85」の署名。

ル・アーヴル港の入口
《ル・アーヴル港の入口》1883年。油彩・画布。縦118.6センチ、横160.2センチ。夕暮れの港。帆を畳んだ大型帆船が二隻、静かな水面に浮かぶ。ウジェーヌ・ブーダン《ル・アーヴル港の入口》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

一方で、こういう大画面も残している。

縦1.2メートル、横1.6メートル。先ほどの小品の四十倍近い面積である。

夕暮れの港の内側である。水面は鏡のように静かで、船と空を映している。

左に大型の帆船が一隻。帆を畳み、旗を掲げている。その左では、蒸気船が黒い煙を上げる。

右にもう一隻、同じような帆船。奥には無数の帆柱が林立している。

そして空。上半分は灰青の雲、水平線の近くだけが黄金色に光っている。

画面全体が灰色と黄土でまとまり、強い色はどこにもない。

大きさが変わっても、配分の考え方は同じである。空が主役で、船はその下に置かれる。

印象派展にも、出品した

1874年、第一回の印象派展が開かれたとき、ブーダンも出品している。

ただし、印象派の中心にいたわけではない。彼はモネより十六歳年上で、様式もやや古い。

色は印象派ほど分割されておらず、明暗の構成は伝統的である。

橋渡しの位置にいた画家、という言い方が近いだろう。

実際、彼の作品は印象派ほど激しく批判されなかった。

理由は分かりやすい。画面が穏やかで、形が壊れていないからだ。

新しさが目立たないぶん、抵抗も少ない。

先を行きすぎた人が叩かれ、少し手前にいた人が受け入れられる。よくある構図である。

ただし、その「少し手前」がなければ、次の一歩も出なかった。

見立て——空は、練習の対象である

ここからは書き手の見方である。

ブーダンの仕事を、私は「観察の練習を、作品にまで持ち上げた例」として読みたい。

彼のパステル習作は、本来は練習である。雲の形を覚えるための記録だ。

日付と風向きを書き込むのは、あとで見返して比較するためだろう。学習の道具である。

その練習の集積が、結果として彼の油彩を支えた。

浜辺の絵で、人物があれほど簡略でも画面が持つのは、空が持っているからだ。

言い換えると、いちばん時間をかけた部分が、絵の背骨になっている

そして興味深いのは、彼が最後まで「空の画家」であり続けたことである。

主題を広げることも、様式を大きく変えることもしなかった。同じことを五十年続けた。

その一貫性を、退屈と見ることもできる。私はそう見ない。

毎日違うものを描いていれば、同じ主題でも飽きようがない。空とは、そういう対象である。

数の多さについて

留保も置いておきたい。

ブーダンは非常に多作だった。当サイトで公開しているだけで30点ある。世界中の美術館には、はるかに多くの作品がある。

数が多いということは、質にばらつきがあるということでもある。

土産物として売るために量産された小品の中には、明らかに手早く済ませたものが混じる。

すべてを傑作として扱うのは公平でない。良い一枚と、そうでない一枚がある。

見分ける手がかりは、やはり空だと思う。空に階調の変化が細かく入っているものは、時間がかかっている。

一色で平らに塗られた空は、急いだ証拠である。

もう一点、留保がある。

彼の浜辺の絵は、当時の中産階級の余暇を描いたものである。そこに写っているのは、休暇を取れる人たちだ。

同じ海岸には漁師が住み、生活していた。彼らは行楽客とは別の暮らしをしている。

ブーダンは働く港も描いているので、片方だけを見ていたわけではない。

ただ、売れたのは行楽の絵のほうである。買い手がそこにいたからだ。

何が残るかは、何が売れたかで決まる。この事情は、どの時代の絵にも当てはまる。

暮らしへ——空を、十日記録してみる

最後に、誰にでもできる練習をひとつ。

同じ時刻に、同じ方角の空を、十日間撮る。

朝でも夕方でもよい。窓から見える範囲でかまわない。

そして、撮った日付と、そのときの体感(風があったか、暑かったか)を一行だけ書き添える。

十日分を並べると、驚くほど違う。同じ空は一日もない。

これはブーダンがパステルでやっていたことと、ほぼ同じである。

続けると、空を見る目が細かくなる。「今日の雲は低い」「昨日より青が薄い」が分かるようになる。

そうなってから彼の絵を見ると、あの空がどれだけ観察されたものかが伝わってくる。

飾るなら、空の多い絵は圧迫感が少ない。狭い部屋や、天井の低い場所に向く。

飾る場所と光についてはこちらのコラムで扱っている。

ARTISTS関連する画家

RELATEDあわせて読みたい

画家を知るの記事一覧