「記録」という言葉を、疑ってみる——ジョージ・カトリンの肖像
目撃を、絵の中に書き込む
では、その展示は何を売っていたのか。
「私はそこにいた」という保証である。

土をかぶせた半球形の住居が、画面いっぱいに並んでいる。
屋根の上に人が座り、寝そべり、立っている。犬が走り、白い馬が二頭引かれていく。
中央に四本の高い柱。先端に黒い布と羽根が結ばれている。
手前の屋根には、水牛の頭骨が二つ置かれている。
奥は柵で囲まれ、その外に緑の草原が広がる。
視点が高い。住居の屋根より上から見下ろしている。
所蔵館は、この作品の解説に本人の文章を引いている。
「私は今朝、土をかぶせた住居の一つの上に登り、村の全体を足元に置いた」
つまり画家は、自分が登った位置を文章で明かしている。
構図そのものが、目撃の署名になっている。
同じ文章には、頭上で揺れていたものの記述も含まれている。
戦いの証しとして掲げられた品である。画家はそれを珍しいものとして書き留めた。
書き手の視線が、どこに驚いているかが分かる文章である。
一方で、この村がどういう場所だったかは、絵からは読み取れない。
所蔵館は、同じ村を描いた別の作品の解説で、この点に注意を促している。
画家は人々を「まったく原始のままの状態」と書いたが、
実際には18世紀前半から交流の記録があり、交易の要地だったという指摘である。
これは所蔵館の見解として引いておきたい。当サイトが独自に検証したものではない。
ただし絵と記録を並べれば、書き手の言葉が実態より単純だったことは分かる。
画面の中に、自分を描く
もっと直接的な方法もある。

草原を、二頭の水牛が走っている。
その脇に、麦わら帽子の男が馬で並走している。手綱を放し、長い棒を構えている。
右奥にもう一騎。白い馬に乗り、槍を持って駆けている。
背後の丘は薄い青で、遠近が飛んでいる。
題名の「私」は画家である。
所蔵館の解説には、同行者が水牛に馬を突かれて宙を飛んだという本人の記述が引かれている。
危険な現場に自分がいたことを、題名と本文の両方で示している。
こうした「私」の入った狩りの場面は、当サイトの公開分だけでも複数ある。
同行者の名を題名に入れた作品が四点あり、いずれも川辺や草原での狩りである。
画家は、危険を共にした証人として自分を配置している。
さらに言えば、彼は狩る側として描かれている。見ているだけの人ではない。
この時期、水牛の群れは商業的な捕殺によって急速に減っていく。
その減少を憂える文章を書いた人が、追う場面を売り物の絵にしている。
矛盾を責めたいのではない。記録者が現場の当事者でもあったという事実である。
三十年後に、もう一度描かれた
ここから話が変わる。
この画家には、後年に作り直した大きな連作がある。

まず、絵の外側を見てほしい。
灰緑の厚紙に楕円の窓が開き、その中に絵がある。
厚紙の上端に「131」の数字。下端に印刷された題名の紙片。
左下には「A/306」の押印がある。番号が二重に振られている。
印刷された紙片には、英語で「著者がマンダンの首長の肖像を描く」と読める文が入っている。
「著者」という語に注意したい。彼は自分の著書の書き手として、絵の中に現れる。
絵の中身はこうだ。羽根冠の首長が中央に立ち、右手前に画家が座っている。
画家は膝に画布を置き、筆を動かしている。首長のうしろに人々が二重、三重に並ぶ。
つまりこれは、自分が記録している場面の絵である。
制作は1861年から1869年。描かれた出来事は1832年。三十年後の再制作である。
二つの集まりがある
この画家の作品は、大きく二つに分かれる。
一つは1830年代の油彩。画布に描かれ、寸法がそろい、現在はスミソニアンにある。
もう一つは晩年の厚紙。47×63センチ前後にそろい、番号が振られ、現在はワシントンにある。
後者の来歴も分かっている。画家の死後、三人の娘に受け継がれた。
1912年に自然史系の博物館が購入し、1959年に画商を経て、個人の収集家の手に入った。
その収集家の寄贈で、現在の所蔵館に収まっている。
同じ画家の仕事が、美術館と自然史博物館のあいだを行き来している。
「作品」なのか「資料」なのか。扱いが定まらなかったことの跡である。
この二つの集まりには、内容の重なりも多い。
同じ人物、同じ村、同じ狩りの場面が、両方に出てくる。
前者を見て後者を描いたのだから、当然である。
つまり晩年の連作は、自作の縮小版であり、写しでもある。
複製の連鎖という点では、肖像画家の商売と変わらない。
同じ時代のアメリカで顔がどう複製されたかは別のコラムで扱った。
ただしここで複製されたのは、注文主の顔ではない。注文していない人々の顔である。
その差が、この画家をめぐる議論の核心にある。