「記録」という言葉を、疑ってみる——ジョージ・カトリンの肖像
目撃できない主題も、同じ手つきで描いた
晩年の厚紙の連作には、別の種類の絵が混ざっている。

夕暮れの川辺である。
黄色の空に、赤褐色の雲が長く伸びている。左は広い水面。
岸に十字架が立てられ、その周囲に人が集まっている。
右側には帽子を掲げた男が立ち、左には並んだカヌーと座り込む人々がいる。
主題は1682年の出来事である。画家が生まれる百年以上前のことだ。
制作は1847年から48年。つまりこれは、目撃ではない。
同じ画家が、同じ手つきで、伝聞と記録から場面を構成している。
厚紙の上端には「22」の番号。ここでも連作の一枚として番号が振られている。

こちらは南米である。
椰子の生えた岸に、草葺きの小屋が三棟。手前の川に細長い舟が浮かぶ。
舟には二人が乗り、岸には人々が集まっている。
画面は淡い黄緑で、遠くの森は霧に溶けている。
題名は《レングア族の首長を描く》。ここでも画家は、描く場面を描いている。
上端の番号は「669」、左下の押印は「A/441」。
北米の平原と南米の川辺で、絵の作り方はほとんど変わらない。
楕円の窓、番号、そして「私が描いた」という主題である。
見に行けなくなった村を、もう一度描く
もう一枚、見ておきたい。

川が大きく曲がり、その上の台地に村が見える。
手前の崖に人が座り、釣り竿らしい細い線が下がっている。
空は明るい青。積雲が横に並んでいる。
先に見た鳥瞰と同じ村である。ただし今度は遠くから眺めている。
制作は1860年代。ここで一つ、重い事実を書いておく必要がある。
1837年、この地域は疫病に襲われ、マンダンの人口は激減したことが記録されている。
1860年代の画家は、1832年に見た村へ戻って描いたのではない。
自分の古い絵と、自分の記憶から描いている。
だから、この一枚を1860年代の記録として読むことはできない。
読めるのは、1860年代の画家が1832年の光景をどう覚えていたか、である。
そして厚紙の左下には、やはり通し番号の押印がある。
記憶から作られた絵にも、資料のような番号が振られている。
「記録」は、方法ではなく主張だった
ここまでを整理したい。
寸法をそろえた肖像。目撃を示す視点。画面に描かれた自分。番号を振られた組物。
いずれも、記録の正確さを担保する仕掛けではない。
記録である、という主張を強める仕掛けである。
この区別は大切だと考えている。
では、この絵に資料としての価値は無いのか。そうは思わない。
価値は「本人が見たから」ではなく、「他の記録と突き合わせられるから」生じる。
現に所蔵館は、本人の記述を訂正しながら作品を公開している。
たとえば、彼が「原始のままの状態」と書いた人々について、
1730年代から交流の記録があることを解説で明記している館がある。
作品と、作品への訂正が、同じ場所で公開されている。
これは記録の扱い方として、まっとうな形だと思う。
私たちが当サイトでこれらを公開しているのも、同じ考え方によっている。
見せないことで守られるものは少ない。並べて、条件を書き添えるほうがよい。
だから作品の頁には、所蔵館名と権利の状態を必ず記している。
図版の題名も、可能なかぎり所蔵館の原題に沿わせている。
突き合わせが効くところ
では、どこなら信頼できるのか。
物の形である。衣装の仕立て、装身具の並び、煙管の軸の長さ、盾の意匠、住居の骨組み。
これらは現存する遺品や他の記録と比べられる。比べられるものは検証できる。
逆に検証しにくいのは、人物の性格づけと場面の意味づけである。
「威厳がある」「原始のままだ」といった評価は、画家の側の言葉だ。
絵から情報を取り出すときは、この二種類を分けて扱いたい。
形は資料として、意味づけは19世紀の視線の記録として読む。
この分け方は、写真にも使える。
写っている物の形は資料になる。付けられた説明文は、撮った側の言葉である。
名前が残っていること
もう一点、書いておきたいことがある。
この画家の肖像には、描かれた人の名前が付いている。
当時、白人側が作った先住民の図像で、個人名が残っている例は多くない。
その意味で、名前は貴重である。
ただし表記は本人によるローマ字化で、綴りも所属の書き方も不正確な箇所がある。
所蔵館が原題をそのまま残しているのは、資料として扱うための判断だろう。
当サイトも、日本語題では原題の音を追い、断定を避けた形にしている。
そして忘れてはならないのは、時代の背景である。
1830年代のアメリカでは、先住民を土地から移す政策が進行していた。
肖像が描かれた1832年の戦いも、その流れの中で起きている。
「消えゆく人々を記録する」という言葉は、消えさせている力の存在を隠しやすい。
大画面の風景画と土地の接収が同時期に進んだことは別のコラムでも触れた。
暮らしへ——「記録」と書いてあるものを、二度読む
最後に、日常に持ち帰れる話をひとつ。
私たちの手元にも、記録と呼ばれる画像があふれている。
写真、動画、地図、統計の図。
見るときに、二つだけ足してみてほしい。
一つ、誰がどこに立って撮ったのか。もう一つ、誰に見せるために作られたのか。
この二つを足すと、同じ画像から読めることが増える。
カトリンの絵も、そうやって読むと面白くなる。
彼が本当に残したのは、19世紀のアメリカが先住民をどう見たかという記録である。
飾るなら、こうした主題の絵は、視線が交わらない高さに掛けるとよい。
見下ろす角度にしないほうが、描かれた人と対等に向き合える。
そして、名前が付いている絵なら、その名前を声に出して読んでみてほしい。
型として並べられた人が、一人に戻る瞬間がある。







