行かずに描いた、南の光——アルベルト・カイプ
問い——行っていない国の光
ここで問いを立てたい。
冒頭の《ドルトレヒトのマース川》の光は、オランダの光ではない。
オランダの空は低く、湿り、灰色に近い。初期のカイプが描いた通りの空である。
だが冒頭の絵では、低い太陽が乾いた金色の光を投げている。
雲は蜂蜜色に染まり、ものの輪郭は逆光で縁取られる。
それは南の国の光である。イタリアの平原を照らす、夕日や朝日の光だ。
北の街の景色に、南の時刻がかぶせられている。
絵をよく見るほど、この組み合わせの不思議さが際立ってくる。
しかしカイプは、イタリアに行っていないと考えられている。
当時、多くのオランダ人画家が修業のために南へ旅した。
アルプスを越え、ローマで数年を過ごし、南の光を体で覚えて帰った。
カイプは、その旅をしなかった。
見たことのないはずの光で、なぜ故郷を描けたのか。
光を、絵から輸入する
答えは、同業者の絵にあったと考えられている。
17世紀のオランダには、イタリア帰りの風景画家たちがいた。
ヤン・ボトら、いわゆるイタリア派である。
彼らはローマ近郊で光を学び、金色の風景画を携えて帰国した。
1640年代、ユトレヒトなどでその画風が流行した。
カイプはこれらの絵を見て、光の扱いを学んだと考えられている。
本人がユトレヒトで実作を見たのか、流通する絵で知ったのかは、わからない。
いずれにせよ、手がかりは旅ではなく、絵だった。
考えてみれば、画家は動かなくても、絵は動く。
売られ、運ばれ、画商の店先や収集家の壁に掛かる。
川の街ドルトレヒトには、ものと一緒に絵も情報も流れ込んだだろう。
太陽を低く置くこと。人や牛を逆光でとらえること。影を温かい色で塗ること。
遠くのものほど、金色の靄に溶かすこと。
いずれも、絵を見れば学べる技術である。現地の空気は要らない。
必要なのは、よい手本と、それを見抜く目だった。
カイプには、その両方があったのだろう。
つまりカイプは、現地には行かず、絵から光だけを取り寄せた。
輸入光学、とでも呼びたくなる手法である。
しかも、輸入したのは光だけだった。主題までは真似しなかった。
イタリア派が好んだ南国の山や廃墟のかわりに、カイプは故郷の川と牛を置いた。
他人の絵の中の太陽を、ドルトレヒトの空に付け替えたのである。
この移し替えに、無理はなかった。
広い川面と湿った空気は、低い光をよく受け、よく反射する。
平らな土地は、地平まで光を通す。金色の光と低地は、むしろ相性がよかった。
夕日が、牛の背を縁取る
その成果を見よう。

川辺の夕暮れである。
低い太陽が、画面の奥にある。光は水面を渡って、こちらまで届く。
手前の岸辺に、牛たちが横たわっている。逆光を受けて、体は深い影になる。
そのかわり、背中と角の輪郭だけが、細く金色に光る。
影の中の体も、真っ黒ではない。温かい褐色が透けて、量感を保っている。
そばには羊飼いが立ち、羊が群れている。空気全体が、温かい色に染まる。
初期の桟橋の絵と、見比べてほしい。
描かれているものは、さほど変わらない。川、船、岸辺の人。
変わったのは光である。銀灰色の空気が、金色の空気に入れ替わっている。
土地は故郷の川辺のままである。だが時刻だけが、南の国のものになった。
銀灰色の画家は、十年足らずで金色の画家になった。
二十代の終わりごろの、鮮やかな変身である。
なお所蔵館の記録によれば、画面右下に「A:Cuijp」の署名がある。
冒頭の絵とは綴りが少し違う。署名の揺れも、この時代らしい細部である。
牛という、誇りの主題

広い平野を、牛の群れが進んでいく。馬に乗った牛飼いが付き添う。
地平は低く、空が大きい。その大きな空の下で、牛たちの背が光っている。
牛飼いは急がず、牛も急がない。画面には、ゆったりとした時間が流れている。
なぜカイプは、これほど牛を描いたのか。
当時のオランダで、牛は富の象徴だった。
低い土地を干拓して牧草地に変え、酪農で栄えた国である。
乳とバターとチーズは、この国の暮らしと商いを支えた。
よく肥えた牛は、土地の豊かさそのものを意味した。
干拓と牧畜の国の誇りが、牛の姿を借りて画面に立っている。
しかもカイプは、その牛に南の光を当てた。
日々の財産が、理想の光の中で輝く。注文主にとって、これほど嬉しい絵はない。
だからカイプの牛は、ただの点景ではない。
一頭一頭が堂々と、画面の主役として歩いている。
赤い上着が、一点だけ燃える

崖の上に、牛たちが立っている。眼下には川が光り、平野が遠くまで開けている。
遠景は淡い金色の靄に溶け、距離が色の濃淡で示されている。
手前の牛飼いは、赤い上着を着ている。
金色に統一された画面の中で、その赤だけが強く目を引く。
画面を一色でまとめ、要所に一点だけ強い色を置く。
カイプがよく使った、画面を締めるための工夫である。
視点は低い。牛たちは空を背にして、記念碑のように大きく見える。
牛たちは、一頭ずつ丁寧に描き分けられている。毛の色、角の曲がり方、立ち姿。
家畜の肖像画、といってよい扱いである。
人の肖像画が着る者の富を示すように、牛の絵は飼う者の富を示した。
風景の中に牛がいるのではない。牛のために風景がある。
この転倒こそが、カイプの絵の面白さである。