祭壇画は、なぜ切り離されたのか——シモーネ・マルティーニと金地の板
問い——誰が、なぜ切り離したのか
ここで問いを立てたい。
祭壇画は祈りの道具である。教会の備品であり、動かすものではない。
それを切り離したのは誰で、理由は何だったのか。
手がかりは、ワシントンの所蔵記録にある。
《聖シモン》の来歴欄によれば、19世紀前半、ケルンの収集家ヨハン・アントン・ランブーが、
おそらくシエナで、同じ組の板をまとめて手に入れた。
1867年の遺産売り立てでは、十枚が一括で出品された。
そのときの作者名は、シモーネではなく「リッポ・メンミ」。同時代の義兄弟の画家である。
十枚はケルンのヴァルラフ=リヒャルツ美術館に入り、1922〜23年に手放された。
そこから板は一枚ずつ市場に出て、大西洋を渡り、四枚がワシントンに、二枚がニューヨークに落ち着いた。
つまり、ばらばらに見える三枚は偶然ではない。
一つの祭壇画の破片が、持ち主を替えながら、二つの街に分かれて残っている。
分割には、理由があった
犯人は一人ではない。時代の変化がいくつも重なっている。
まず、趣味の変化である。ルネサンス以降、金地の古い祭壇画は時代遅れとされ、
教会の改装のたびに外されていった。
次に、制度の変化である。18世紀末からの戦争と修道院の解散で、
教会の什器が大量に市場へ流れた。
最後に、収集熱である。19世紀、ラファエロ以前のイタリア絵画を見直す動きが起き、
金地の板が急に「買うべき美術」になった。
ここで寸法の問題が効いてくる。
祭壇画の全体は、高さも幅も数メートルに及ぶ。個人の家には入らない。
一枚ずつなら、壁に掛かる。売る側は高く売れ、買う側は飾れる。
分割は、双方にとって合理的だった。
一つの組み立て物が、額に入る「作品」の群れに変わったのである。
信仰の道具としては解体であり、商品としては再生だった。この両義性が、この主題の核心である。
名前も、揺れてきた
1867年の売り立てで、シモーネの組が「リッポ・メンミ」の名で売られたことは先に触れた。
リッポ・メンミはシモーネの義理の兄弟で、共同で工房を営んだ画家である。
当時の売り立て目録にとって、名前は値札の一部だった。
有名な名に寄せるのは商習慣であり、確かめる手段も乏しかった。
美術史という学問が帰属を検証し始めるのは、まさにこの19世紀後半からである。
二人の手は近く、見分けは今も専門家の議論が続く領域である。
つまり断片は、名前ごと旅をしてきた。
売られるたびに作者名が付け替えられ、研究が進むたびに戻される。
現在の「シモーネ・マルティーニ」という表記も、所蔵館の現時点の判定であって、
永久の答えではない。
同じ組かどうかの判定には、寸法や様式のほかに、金地の刻印も使われる。
金箔には、小さな鏨で文様を打ち込む。工房ごとに道具が違うため、
刻印の形が一致すれば、同じ工房で作られた強い証拠になる。
肉眼では見えにくい証拠が、拡大画像でなら追える。
公開画像の解像度は、この分野の研究をたしかに変えてきた。
裏にも絵がある
分割の痕跡が、もっとはっきり残る例を見たい。シエナの画家アンドレア・ディ・バルトロの板である。


二枚の画像に見えるが、実は同じ一枚の板の表と裏である。
所蔵番号が「1939.1.20.a」と「1939.1.20.b」。枝番で対になっている。
表は、地面にじかに座る聖母が幼子に乳を与える図である。
頭上の三角の破風には祝福するキリスト、左右に橙色の衣の天使。
左下には、白衣の寄進者が小さく描かれ、手を合わせている。
裏は、十字架のキリスト。暗い地の文様はすり減り、絵の具の欠けが目立つ。
赤褐色の地に、失われた装飾の痕が斑点のように散る。
画面の下では、十字架の根元がわずかに緑を残す。かつては足元に岩山が描かれていたらしい。
表より裏が傷んでいるのは、裏がそれだけ外気に触れたからだろう。
傷みは損失だが、情報でもある。
どちらの面が主で、どちらが従だったか。摩耗の差が使われ方を語っている。
両面に絵があるのは、両面が見られたからである。
壁に掛ける絵ではなく、持ち歩かれた板だと考えられる。
行列で掲げたのか、旅先の祈りに使ったのか。所蔵館の記録は、用途までは特定していない。
確かなのは、この板が「表しか見ない」壁掛けの展示に収まりきらない、ということである。
画像が表裏で二点に分かれて公開されている現状は、その不一致の記録でもある。
来歴も短く添えておく。この板は1920年代にイタリアの個人蔵から画商を経て、
1927年に収集家サミュエル・H・クレスの手に渡り、1939年に美術館へ寄贈された。
板一枚の移動としては、ずいぶん静かな旅である。
だが視点を変えれば、六百年前の携帯用の祈りの板が、
いまも「持ち主から持ち主へ渡る」性質を保っていたとも言える。