修道士の子、画家になる——リッピ父子
問い——技は、どうやって渡るのか
ここで問いを立てたい。画家の技は、どうやって次の代へ渡るのか。
父が画家で、息子も画家。それなら父が手を取って教えた、と考えたくなる。
だがリッピ父子の場合、そうではなかった。
フィリッポが没したのは1469年。息子フィリッピーノは、まだ12歳ごろだった。
絵具の練り方は覚えられても、画面の設計まで学び切れる歳ではない。
修業が本格化する前に、教える側がこの世を去った。
しかも当時、絵の技術を学ぶ教科書はない。
顔料の練り方、板の下地の作り方、金箔の置き方、人体の型。
すべては人のそばで、手を動かして覚えるしかなかった。
そばに立つべき父が、いない。それでも息子は画家になった。
では、技はどこを通って息子に渡ったのか。
鍵は、父の工房にいた一人の弟子である。
答えは息子の絵を見るときに置く。その前に、父の絵をもう少し見ておきたい。
窓枠から、男が覗いている
父の腕は、宗教画の外でも冴えた。

若い女が、横顔で立っている。左の窓枠からは、男が顔を覗かせる。
女は建物の内に、男は外にいる。壁一枚が、二人の間に挟まっている。
視線は合わない。女はまっすぐ前を見て、男は女を見ている。
見つめる者と、見つめられる者。小さな画面に、物語のような緊張がある。
横顔の肖像は、当時のイタリアの慣例だった。古代の貨幣の横顔に倣った形式と考えられる。
だがこの絵は、慣例の枠に収まらない。人物が一人ではなく、二人いる。
所蔵館の記録によれば、これはイタリアに現存する最初期の二人肖像の一つとされる。
さらに、室内を舞台にした肖像としても最初期の例とされる。
つまり、肖像画という分野の出発点近くに立つ一枚である。
女の装いを見よう。袖には金の刺繍がびっしりと走り、頭には真珠が連なる。
高く剃り上げた額に、結い上げた髪。当時の流行の装いである。
袖の意匠は一針ずつ描き分けられ、布の張りまで伝わってくる。
指輪や飾りの一つひとつまで、画家は省かずに描いた。
肖像でありながら、画面の主役は半ば衣装である。
二人が誰なのか、確かなことを記す文書は残っていない。
婚礼にかかわる注文と考えられており、装いは家の格の目録でもあった。
注文主の富を、画家は布と宝石の精密な描写で記録した。
修道士の筆が、現世の贅沢をこれほど正確に写す。その落差が面白い。
桃色の柱廊に、修道士たちが立つ
もう一点、小さな横長の板を見る。

桃色の柱廊が、画面を横に貫いている。黒衣の修道士たちが、その下に立つ。
柱の列が刻む等間隔のリズムに、人物の動きが乗る。
小さな板なのに、空間の設計は受胎告知と同じくらい周到である。
主題は修道制の父、聖ベネディクトゥスの物語である。
水難に遭った弟子プラキドゥスを救うため、聖ベネディクトゥスが聖マウルスに命を下す。
画面の右では、命じられた救助が今まさに始まっている。
縦40センチ、横69.5センチ。この細長さには理由がある。
これはプレデッラ——大きな祭壇画の下段に横一列に並ぶ、小画面の一枚である。
祭壇画の本体が聖人の姿を大きく掲げ、プレデッラがその生涯の物語を受け持つ。
祭壇の前に立つ人の、ちょうど目の高さに来るのがこの下段である。
見上げる大画面と、間近で読む小画面。祭壇画は二段構えの装置だった。
所蔵館の記録によれば、この板はアレッツォの聖堂の主祭壇画の一部と考えられる。
祭壇画は後世に祭壇から外され、解体された。
同じ記録によれば、板は十八世紀の後半まで、隣接する修道院に留まっていたという。
記録によれば、板は十九世紀にミラノの収集家の手にあり、のちにパリへ移った。
部品はばらばらに売られ、この一枚は最後に海を渡った。
いま単独で額に納まる小さな板は、本来は大きな全体の一部だった。
離れた美術館に散る仲間の板と、かつては一枚の物語を組んでいた。
その顛末は切り離された祭壇画に書いた。
修道院の絵に、現世の絹が光る
父フィリッポの絵を、ここまで五点見た。
受胎告知、聖母子、肖像、修道士の物語。注文の多くは教会と修道院のためのものである。
だが画面に満ちているのは、祈りの静けさだけではない。
孔雀色の翼、金の刺繍、真珠、石の玉座。現世の豊かさが、隅々まで輝いている。
聖母の顔は、天上の存在というより、フィレンツェの町の若い女の顔である。
天使には羽根があるだけで、少年の体つきと変わらない。
祈りの空間を組み立てる遠近法と、俗界の光沢を写す観察眼。
フィリッポの中では、この二つが矛盾なく同居していた。
修道士の身で俗世の恋に生きた画家。その両義性が画面にもある、と言いたくなる。
ただし、それは後世からの見立てである。
聖と俗を一枚の板に同居させる腕こそ、この画家の身上だった。
確かなのは、この筆の技が一代で終わらなかったことだ。
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