修道士の子、画家になる——リッピ父子
父は修道士のまま画家になり、息子は父の弟子ボッティチェッリに学んだ。技は血ではなく、工房を経由して伝わる。ルネサンス・フィレンツェの継承の仕組みを、フィリッポとフィリッピーノ、リッピ父子の九点の見比べで確かめる。

上端が、段になって切れている
一枚の絵から始めたい。

横長の板である。縦100センチ、横161センチ。
ただし、ふつうの長方形ではない。上端の輪郭が、段状に切れ上がっている。
中央が高く、左右の肩が一段低い。額縁の飾りではなく、画面そのものの形である。
なぜ、こんな形をしているのか。
この形は、絵が家具や壁面に嵌め込まれていた名残と考えられる。
寝室の腰板、戸口の上の飾り。当時の板絵は、しばしば建築や調度の一部として注文された。
絵は壁に掛けるものではなく、部屋に組み込まれるものだった。
壁から外されたとき、嵌め込み先の輪郭だけが絵に残った。
段状の上端は、失われた部屋の形見である。
板の事情は板に描くという選択で書いた。
制作年に幅があるのは、注文の記録が残らず、様式から推定されているためと考えられる。
画面の中を見よう。主題は受胎告知である。
左から天使ガブリエルが膝をつき、右で聖母マリアが告げを受けている。
聖母は身を引き、目を伏せる。驚きと受け入れが、同じ姿勢の中にある。
まず目を引くのは、天使の翼である。孔雀の羽のような、青緑の目玉模様がびっしりと並ぶ。
二人のあいだの床には、ガラスの瓶が置かれている。
透けた器のなかを、光がそのまま通り抜ける。聖母の純潔を示す意匠と考えられる。
光がガラスを傷つけずに通るように、神の子は母を汚さずに宿る。そういう見立てである。
柱廊の奥には、塀に囲われた庭が見える。
閉ざされた庭もまた、聖母を指す伝統的な象徴と考えられる。
建物の線は、画面の奥の一点へ引き絞られている。
当時のフィレンツェで練り上げられたばかりの、線遠近法の空間である。
遠近法の固い骨組みの上に、絹と羽根の柔らかな輝きが載っている。
理屈の空間と、感覚の輝き。この取り合わせが、描いた男の生涯とよく似ている。
なお所蔵館の記録によれば、この板はミラノの収集家の手などを経て、二十世紀に海を渡った。
現在の所蔵は、クレス・コレクションからの寄贈による。
修道士のまま、画家になった
描いたのはフィリッポ・リッピ。1406年ごろ、フィレンツェに生まれた。
幼くして孤児となり、カルメル会の修道院に預けられたと伝えられる。
そのまま修道誓願を立てた。だから「フラ(修道士)・フィリッポ」と呼ばれる。
修道士の身分のまま、絵筆で身を立てた画家である。
彼が育った修道院の聖堂には、当時最新の壁画があった。
若い日のリッピがそれを学んだと、伝記作者ヴァザーリは伝えている。
修道院は、祈りの場であると同時に、絵の学校でもあった。
そして彼の生涯には、有名な醜聞がある。
同じヴァザーリが伝えるところでは、リッピは修道女ルクレツィア・ブーティを連れ出した。
二人のあいだに息子が生まれたと伝えられる。のちの画家、フィリッピーノ・リッピである。
修道士と修道女の子。当時の常識では、ただごとではない。
それでも画業が絶えなかったのは、メディチ家の庇護があったからと伝えられる。
腕が、身分の掟より強かった。そう言いたくなる経歴である。
晩年は注文に応じてフィレンツェの外へも赴いた。
所蔵館の作家記録は、1469年の没地をスポレートと記している。
もっとも、ヴァザーリは事件から百年ほど後の伝記作者である。
逸話には脚色が混じると考えられ、細部をそのまま信じることはできない。
それでも、息子フィリッピーノが実在し、画家になったことは動かない。
醜聞の子が、やがて父の名声を継ぐ。話はここから、継承の問題に入っていく。
貝殻を背にした聖母
その腕が、どんな聖母を描いたか。二点を見る。

聖母が幼子を抱く。背後の壁は、大きな貝殻の形にくぼんでいる。
貝殻形のニッチは、古代の建築に由来する意匠である。
彫像を納めるための壁のくぼみに、画家は生身の母子を置いた。
石の枠に嵌まった聖母は、一見、彫像のようでもある。
だが顔を見ると、石ではない。伏せたまぶた、ふくらんだ頬。
幼子は母の腕の中で身をよじり、小さな手を伸ばす。
若い母親の、柔らかな肉がそこにある。
聖母を彫像の枠に納めながら、生身の体温を与える。この画家の呼吸である。
所蔵館の記録によれば、この板は十九世紀にはベルリンの美術館にあった。
1937年に売りに出され、海を渡って現在の所蔵先に落ち着いた。

こちらは上端がアーチ形の板である。聖母が、暗い色の玉座に深く座る。
玉座は石造りの建築のように重く、彫刻めいた飾りを持つ。
足元では、二人の天使が巻物を広げている。
技法はテンペラに金を併用する。卵で顔料を練る、油彩以前の伝統的な絵具である。
乾きが速く、色は薄く塗り重ねるしかない。肌の柔らかさは、細い筆の積み重ねで作られる。
アーチ形の上端もまた、置かれた場所の形を映すものだろう。
教会の窓や祭壇の枠に、板絵は形ごと寄り添っていた。
建築のような量感と、母子の柔らかさ。フィリッポの聖母は、その両方を備えている。
この柔らかな聖母の型を、のちに一人の弟子が受け取ることになる。