村の一場面を、絵にする——ウィリアム・シドニー・マウント
話が長い男
五枚目は、酒場の別の場面である。

室内である。左に閉じた扉、右に窓がある。
床は板張りで、道具が散らばっている。
中央に、暖房用の器具らしきものが立つ。
その周りに、三人の男がいる。
右に座る男は、脚を組み、杖を持っている。
上体を前に傾け、口を開いている。話している。
左に座る男は、椅子に浅く腰かけている。
頭に布を巻き、手を膝に置いて聞いている。
中央奥に立つ男は、帽子をかぶり、腕を後ろに回している。
その姿勢は、少し退屈しているようにも見える。
話し手と、聞き手
この絵の主題は、会話である。
正確に言えば、長引いている会話である。
題にある「長話」は、そのまま状況を示している。
一人が熱心に話し、二人が付き合っている。
聞き手の姿勢に、その温度差が出ている。
座っている男は、体をやや引いている。
立っている男は、視線を落としている。
つまり、この絵には音がある。
一方向に流れる声が、画面を満たしている。
姿勢だけで伝える
この画家の上手さは、姿勢の描写にある。
顔の表情は、それほど細かく描かれていない。
小さな画面なので、目鼻の描写には限界がある。
代わりに、体の傾きと手足の位置で状態を示す。
前に出れば熱心、引けば退屈、腕を組めば距離。
こうした身体の記号は、誰にでも読める。
言葉の説明がなくても、場面が伝わる。
風俗画に必要なのは、まずこの技術である。
りんご酒を作る
六枚目は、屋外の作業の絵である。

明るい画面である。空は青く、雲が白い。
中央に、屋根だけの作業小屋がある。
柱が四本立ち、その下に大きな装置が置かれている。
りんごを搾る機械だろう。
その周りで、数人が働いている。
馬が二頭つながれ、装置を回している。
手前の左には、赤い衣の人物が座っている。
その右には、樽がいくつも並ぶ。
樽のそばで、人が休んでいる。
地面は黄緑色の草地で、光が均一に当たっている。
労働を描く
この絵は、季節の作業を主題にしている。
秋のりんごの収穫と、その加工である。
農村では、こうした作業が年中行事のように繰り返された。
人が集まり、共同で働き、その後に飲む。
つまり労働であり、同時に社交でもある。
その両方が、この一枚に描かれている。
先ほどの酒場の絵と主題が違うようで、実は連続している。
人が集まる場所を描く、という点では同じである。
記録された寄贈
この一枚の来歴も、記録から確認できる。
メトロポリタン美術館の記録では、1966年の受け入れとされる。
別の遺贈の資金を用いた購入と記されている。
つまり、寄贈された金銭で購入された絵である。
美術館の収蔵品には、こうした経路のものが多い。
寄贈、遺贈、購入、交換。
一点ごとに違う経路をたどって、いまの場所にある。
その経路を追うのも、作品を知る一つの方法である。
老人の話を聞く
七枚目は、室内の家族の場面である。

画面が楕円形に切り取られている。
中央に、年配の男性が椅子に座っている。
黒い服を着て、杖を握っている。
その手を、若い娘が両手で握っている。
娘は白い衣を着て、体を前に傾けている。
その後ろに、子どもが二人立っている。
一人はこちらを見て、一人は男性を見ている。
卓の上には、白い胸像のようなものと本が置かれている。
背景は暗く、右に赤いカーテンが垂れる。
三世代の絵
この絵には、三つの世代がいる。
老人、若い娘、そして子ども。
老人は昔の話をしており、他の三人が聞いている。
題にある「革命の話」とは、アメリカ独立の時代のことだろう。
1852年の時点で、それは七十年以上前の出来事である。
つまり、実際に体験した人がまだ生きていた最後の時期にあたる。
記憶が語りとして受け渡される場面を、絵にしている。
肖像画でもあり、風俗画でもある一枚である。
素描も一点
最後に、素描を見ておきたい。

小さな紙である。縦17センチ、横24.4センチ。
鉛筆だけで描かれている。
画面の左に、人物が一人立っている。
背の高い帽子をかぶり、こちらへ背を向けている。
手元に板のようなものを持ち、前方を見ている。
写生をしている姿である。
その前には、平らな野原が広がる。
草がまばらに生え、水路のようなものが横切る。
地平線は低く、空は白いまま残されている。
右下に署名と年記らしき文字が見える。
白黒の図版について
この図版は、当サイトが取得できた画像が白黒である。
もっとも、原品は鉛筆の素描である。
もともと色数の少ない作なので、失われる情報は多くない。
ただし紙の色は分からなくなる。
記録では淡い黄色の紙とされる。
その地色があると、鉛筆の灰色はもう少し柔らかく見えるはずである。
九点を通して
九点を年代順に並べる。
1830年が二点、1835年、1837年が二点、1840年が一点。
そして1840年から41年、1852年、1862年から63年。
三十年以上の幅がある。
主題は、肖像、酒場、くじ引き、会話、労働、家族、風景、写生の現場。
いずれも、同じ地域の暮らしの中にある。
そして、どの絵にも共通することがある。
人物が中くらいの大きさで描かれている。
顔の細部を追うほど近くはなく、点になるほど遠くもない。
姿勢と動作が読める距離である。
中くらいの距離
この距離の取り方が、この画家の特徴だと思う。
近づけば肖像画になる。離れれば風景画になる。
その中間に留まると、風俗画になる。
人が何をしているかは分かるが、誰であるかは分からない。
そこにいるのは、個人であると同時に、その土地の人である。
同じ距離感は、当サイトで扱った
イーストマン・ジョンソンにも見られる。
日常を描くというのは、この距離を選ぶことでもある。
近すぎず、遠すぎず。
九点のどれもが、その位置から描かれている。
そして最初の一枚に戻れば、人はさらに小さくなっている。
枯れ木と家だけが残り、暮らしの気配だけが漂う。
三十年をかけて、この画家は少しずつ距離を取っていった。







