筆でも窯でも、同じ意匠——尾形乾山
問い——乾山の本業は、絵か、器か
当サイトには、尾形乾山の作品が7点公開されている。
すべてメトロポリタン美術館の所蔵である。
内訳は、肉筆の絵が5点。焼き物の皿が2点。
窯元として立った人の仕事に、絵と器が並んでいる。
そこで問いを立てたい。
乾山の本業は、絵か、器か。
陶工が余技で絵を描いたのか。
それとも絵師が、たまたま窯を持ったのか。
どちらの答えも、この人にはうまく収まらない気がする。
そもそも江戸時代には、絵画と工芸の垣根が今より低かった。
絵師が着物の下絵を描き、蒔絵の意匠を考えることもあった。
それでも乾山ほど、筆と窯を行き来した人は珍しい。
答えを探しに、まず絵の側を見ていく。
歌人の暦を、絵にする

《定家詠十二ヶ月花鳥図》という連作がある。
もとになったのは、鎌倉時代の歌人、藤原定家の和歌である。
定家は十二の月それぞれに、花と鳥を詠み分けた。
一月には一月の花と鳥、六月には六月の花と鳥がある。
いわば、和歌でできた暦である。
定家は、平安から鎌倉へ移る時代を生きた歌の第一人者である。
その名は、後世の歌人と絵師にとって権威そのものだった。
この歌群は、のちの時代の絵や工芸の画題になった。
月ごとの花と鳥という枠組みが、絵にしやすかったのだろう。
乾山もこの歌に基づき、月ごとの図を描いた。
これはそのうちの六月である。
画面の左に、舟が浮かぶ。舳先で篝火が燃えている。
水面には鵜が泳ぐ。夏の夜の鵜飼である。
鵜飼とは、飼いならした鵜に魚を捕らせる、夏の川漁をいう。
夜の川に火を焚き、その明かりで魚を集める。
篝火の明かりに照らされて、鵜が魚を追う。
古くから歌に詠まれ、絵に描かれてきた夏の風物である。
墨の線は少なく、彩色は淡い。
闇も水音も描かれていないのに、夜の川が立ち上がる。
そして画面の右には、和歌の書がゆったりと添えられている。
やわらかな仮名の連なりが、絵と同じ画面に同居する。
書の墨と絵の墨は、同じ濃さで響き合う。
書もまた、乾山の見せ場である。
四月——垣根の花と、飛ぶ鳥

こちらは四月の図である。
旧暦の四月だから、いまの初夏にあたる。
画面の下に垣根が横たわり、白い卯の花が咲きこぼれる。
垣根の直線と、花の白い点が、画面に律動を作る。
空には時鳥が一羽、翼を広げて飛んでいく。
卯の花と時鳥は、和歌の世界で初夏を告げる取り合わせである。
歌人たちは毎年、時鳥の初音を待ちわびて歌に詠んだ。
定家の歌のとおりに、花と鳥がひとつの画面に収まる。
ここでも和歌の書が、絵と同じ重さで画面を占めている。
縦16センチほどの小さな画面である。
手もとで眺めるための、親密な大きさといってよい。
歌を読み、絵を見て、また歌に戻る。
目が画面を往復するたび、季節が立ち上がる。
絵は歌の挿絵ではなく、歌は絵の説明ではない。
二つが対等に並んで、はじめて一枚が完成する。
書と歌と絵が一体になった、小さな宇宙である。
これこそ乾山の面目だと、当サイトは考える。
なお所蔵館の記録では、二幅の表具の寸法は等しい。
そろいの表具に仕立てられた、連作の二幅ということである。
十二の月を掛け替えて、一年を壁の上でめぐる。
そういう楽しみ方が想像できる仕立てである。
所蔵館の記録は、この二図を1743年の作とする。
乾山が江戸で没した、まさにその年である。
最晩年まで、この人は歌と絵を手放さなかった。
蔦の紅葉、籠の桔梗

《蔦の秋》。紅く色づいた蔦が、つるを伸ばしている。
蔦の紅葉は、和歌では秋の深まりを告げる景物である。
葉の一枚一枚が、単純な形に整えられている。
同じ形の葉が、向きを変えながら繰り返される。
赤の濃淡だけで、季節の移ろいが示される。
ここにも歌が書き込まれ、絵と響き合う。
もとは画帖の一葉で、のちに掛軸に改装されたものである。
帖の頁として眺められた絵が、壁に掛かる絵に変わった。
日本の絵は、こうして形式のあいだを移動することがある。

《籠に生けた桔梗》。編んだ籠に、白と青の花が生けてある。
桔梗は秋の草花の代表である。
星のような五弁の花が、青と白で涼しげに並ぶ。
籠に花を生けるという趣向そのものが、ひとつの意匠である。
籠の網目は、墨の線の繰り返しで描かれている。
線を重ねるだけで、竹の編み目が立体になる。
ここにもまた、歌書きが添えられている。
秋草を愛でる感覚は、琳派の意匠の得意分野でもあった。
蔦も桔梗も、着物や蒔絵の文様として親しまれた植物である。
乾山は、その文様の世界と絵の世界を自由に往復する。
いずれも軽い筆の小品である。大作ではない。
しかし、手もとに置きたくなる親密さがある。
五点の絵のすべてに、書か歌が伴っている。
絵だけで完結させない。それが乾山の絵の癖である。
言葉と形を組み合わせて、ひとつの画面に仕立てる。
その手つきは、絵というより誌面の設計に近い。
やや時代は下るが、京都では詩と絵を重ねる感覚が続いていく。
日本の文人画も、この土壌から出た。
さて、絵は5点を見た。
残るは、焼き物である。