画面に、詩を書く——呉春《猫と歌》と董其昌ほか九点
猫は下のほうに小さく描かれ、残りはほとんど全部が文字である。書が主役になり、絵のほうが脇役にまわる。掛軸、画帖、石の衝立、焼き物の鉢、そして狂歌の本。詩を載せるために選ばれた九つの形を読みたい。文字と絵の占める面積の比を見たい。

画面に、詩が書いてある
作品を九点、記録の欄で並べてみる。
九点とも、題に詩という語が入っている。
詩を記した、詩とともに、詩を刻んだ。
言い方はさまざまだが、中身は同じだ。
その作品には、詩が書かれている。
しかも、添え物ではない。
画面の中で、大きな場所を占めている。
ときには、絵よりも広い場所を取る。
誰が書いたかは、書かれない
館の題は、詩があることだけを示す。
誰がその詩を書いたかは、たいてい書かない。
作者の欄には、絵を描いた人の名が入る。
しかし、詩を書いた人が別ならどうなるか。
そういうときは、役の欄に書家と入ることがある。
九点のうち一点は、実際にそうなっている。
作者の欄の役が、画家ではなく書家である。
つまり、その人は絵を描いていない。
書だけを担当している。
一語の役名が、仕事の分担を示す。
賛という、書き方
絵の余白に詩を書くことを、賛という。
書くのは、描いた本人とは限らない。
友人が書くこともある。
後の持ち主が書くこともある。
だから、一枚の絵に何人もの筆が残る。
前の回で、余白に文字が積み重なる話をした。
詩の場合は、それがとりわけ多い。
絵を見た人が、感想を詩の形で残す。
そして、次の人がまた書く。
書と絵が、同じ道具でできている
筆、墨、硯、紙。
書に使う道具と、絵に使う道具は同じである。
だから、両方を同じ人ができる。
そして、同じ画面に置ける。
西洋では、書く道具と描く道具が違った。
羽根の筆と、絵筆。
インクと、油絵具。
材料が違えば、同じ面に置きにくい。
九点の画面で書と絵が同居できるのは、道具のおかげである。
材料の話が、見え方まで決めている。
詩が、画面の半分を占める
九点のうち一点は、絵がほとんどない。
猫が一匹、下のほうに小さく描かれるだけだ。
残りは、全部が文字である。
しかも、上のほうの文字は大きい。
墨の勢いが、そのまま線になる。
つまり、書が主役で、絵が脇役である。
館の題は、詩とともに、と書く。
そして、その詩が昔の物語のもじりであることも示す。

細長い掛軸である。
地は、淡い褐色の紙である。
上から下へ、大きな文字が並ぶ。
四文字ほどが、太い墨で書かれる。
その左右に、細かい文字が数行入る。
細かい文字は、歌である。
画面の下のほうに、猫が一匹いる。
丸くなり、こちらを向く。
体は白と褐色の縞である。
尾を体に巻きつける。
墨の線だけで、簡素に描かれる。
見立てという、置き換え
古いものを、今のものに置き換える。
この方法を、見立てという。
昔の歌人を、町の娘に置き換える。
昔の景色を、近所の風景に置き換える。
見る人は、両方を重ねて見る。
つまり、二重に楽しむ。
これは、共通の教養があってこそ成り立つ。
元を知らなければ、置き換えに気づかない。
九点のうち三点が、この方法を使っている。
館の題は、元の名を示すことでそれを助ける。
もじりという、遊び
この一点の題には、もじり、という語がある。
昔の僧が詠んだ歌が下敷きになっている。
その歌を、猫の話に置き換える。
こういう遊びを、当時の人はよく好んだ。
元の歌を知っていれば、可笑しさが分かる。
知らなければ、ただの猫の絵である。
つまり、読む人を選ぶ。
館の題は、そのことを説明として添える。
説明がなければ、いまの私たちには通じない。
書だけの作品を、どこに置くか
書だけの作品は、絵画の部門に入る。
館の部門の欄が、そうなっている。
書のための部門は、別に設けられていない。
つまり、絵と同じ扱いを受ける。
これは、この地域の考え方に沿っている。
書と絵は、一続きのものだからだ。
もし別々の部門に分ければ、扱いが分かれる。
同じ画家の作品が、二か所に散る。
一つにまとめることで、比べやすくなる。
宴を記念する、詩
九点のうち二点は、同じ画家の作である。
いずれも、書で名高い人物だ。
一点は、詩だけを大きく書いた掛軸である。
宮廷から賜った宴を記念する内容だという。
つまり、これは絵ではない。
書の作品である。
館は、絵画の部門でこれを扱う。
書と絵を、同じ枠の中に置いている。

細長い掛軸である。
地は、淡い黄褐色の紙である。
画面のほとんどが、文字で埋まる。
行は縦に、右から左へ並ぶ。
一行の長さは、揃っていない。
文字の大きさも、行ごとに変わる。
墨は濃く、線が太い。
途中で掠れ、また濃くなる。
下のほうに、赤い印が三つ押される。
上部にも、印が一つある。
絵は、まったく描かれない。
繻子に、書く
この画帖の材料は、二種類ある。
金の粉を散らした紙。
そして、繻子である。
繻子は、光沢のある絹の織物だ。
墨が滲みにくく、筆が滑る。
書には向くが、絵には扱いにくい。
だから、絵は紙、書は繻子と分けたのだろう。
館の技法の欄は、その分担を書く。
材料の欄が、作りの手順を語っている。
八組の見開きに、絵と詩
もう一点は、画帖である。
八組の見開きからなる。
片側に絵、片側に詩。
前の回で、同じ作りを見た。
ただしこちらは、材料が凝っている。
金の粉を散らした紙と、繻子である。
つまり、絵の紙と書の紙が違う。
館の技法の欄が、それを書き分ける。

縦長の一葉である。
地は、淡い褐色の紙である。
中央に、木立が数本立つ。
葉は、点を重ねて描かれる。
その手前に、低い岩がある。
左下に、小さな建物が見える。
奥に、なだらかな山が連なる。
山肌は、薄い墨で塗られる。
上のほうに、白い空が広がる。
右上に、文字が二行入る。
赤い印が、いくつも押される。
家具が、絵画になる
この一点は、もとは家具だった。
机の上に立てる、小さな衝立である。
風よけであり、飾りでもある。
それが、いまは壁に掛けられている。
館の部門の欄には、家具とある。
しかし、題には詩が入る。
つまり、家具でありながら書の作品でもある。
前の回で、用途の変わった物を見た。
同じことが、ここでも起きている。
館は、変わったことを題に書き添える。
石に、詩を刻む
九点のうち一点は、紙でも絹でもない。
大理石の板である。
もとは、机の上に立てる衝立だった。
いまは、壁に掛ける形に改められている。
館の題には、その経緯まで書かれる。
そして、詩の名も入る。
古い長詩の題である。
つまり、その詩がこの石に刻まれている。

横長に近い板である。
赤褐色の木の枠が、四辺を囲む。
枠の上に、金具が二つ付く。
掛けるための輪である。
枠の中は、灰色の石である。
石の面に、縞模様が波のように走る。
模様は、白と灰と褐色が混じる。
うねりが、幾重にも重なる。
自然にできた模様である。
山水の景色のようにも見える。
石の面は、平らに磨かれる。
縞の石を、額に入れる
縞のある石を切り、磨き、枠に嵌める。
これは、絵を描くのとは違う仕事だ。
選ぶことと、切る位置を決めることが仕事になる。
同じ石でも、切る面で模様が変わる。
いい模様が出るように切る。
そこに、目利きが要る。
つまり、作者は描いていない。
選んで、切って、枠に入れた。
館の作者の欄には、人の名が入る。
その人は、詩を刻んだ人かもしれない。
石の模様を、景色と見る
この種の石は、当時とりわけ好まれた。
縞の模様が、山や雲に見えるからだ。
つまり、誰も描いていない絵である。
自然が作った景色を、そのまま額に入れる。
そこに、詩を刻む。
石の景色と、詩の言葉が組み合わさる。
館の題は、詩の名だけを書く。
石の模様については、書かない。
見れば分かることだからだろう。
焼き物に、文字を入れる
焼き物に文字を入れるのは、難しい。
面が曲がっているからだ。
平らな紙のようには、書けない。
しかも、焼けば色が変わる。
書いたときと、焼き上がりが違う。
だから、専門の職人が担当した。
絵付けの職人と、文字の職人が別のこともある。
前の回で、分業の話をした。
器の文字も、その分業の中にある。
館の記録は、そこまでは書かない。
器に、詩を書く
九点のうち一点は、焼き物である。
六角形の小さな鉢だ。
側面に、三つの面が作られる。
その面に、それぞれ詩が書かれる。
残りの面には、花の模様が入る。
つまり、文字と模様が交互に並ぶ。
器を回しながら、順に読む。
読み終われば、また最初の面に戻る。
終わりのない読み方になる。

六角形の小さな鉢である。
白黒の写真で写される。
口の縁に、細い帯が回る。
帯の中に、小さな模様が並ぶ。
側面は、六つの面に分かれる。
三つの面に、文字が数行ずつ入る。
残りの三つの面に、花の模様がある。
模様は、渦を巻く葉と大きな花である。
地は暗く、模様が白く浮かぶ。
高台は低く、外へ広がる。
底の縁が、影になる。
漆で装丁した本
九点のうち一点は、装丁が変わっている。
赤い漆の地に、金の漆で模様を描く。
紙の表紙ではない。
つまり、豪華な作りである。
館の技法の欄が、それを書く。
中身は、多色摺の版画である。
外は漆、中は紙。
二つの技術が、一冊にまとまっている。
こういう本は、贈り物や特別な注文だろう。
普通の本屋で売る品ではない。
本の題に、詩の名が入る
九点のうち二点は、絵入りの本である。
どちらも、題に狂歌という語が入る。
決まった形の短い歌で、滑稽を旨とする。
一点は、百の怪談に添えた歌の本。
一点は、変わった人物の姿に添えた歌の本。
つまり、絵と歌が対になっている。
見開きの片側に絵、もう片側に歌。
あるいは、絵の余白に歌が刷られる。

見開きの二頁が並ぶ。
右の頁に、細い獣が描かれる。
体をくねらせ、口を開く。
尾が二つに分かれる。
その下に、水の流れがある。
左の頁に、大きな波が渦を巻く。
波の上に、小さな舟が浮かぶ。
舟に、赤い布が見える。
両方の頁の上部に、文字が並ぶ。
歌が、細かい字で刷られる。
紙は、淡い黄褐色である。

見開きの二頁が並ぶ。
右の頁に、二人の人物が座る。
一人は長い髪を垂らす。
一人は、身をかがめて何かを持つ。
左の頁に、三人が集まる。
一人は座り、二人が身を寄せる。
いずれも、簡素な線で描かれる。
彩色は薄く、灰色と褐色が主である。
頁の上部と余白に、文字が並ぶ。
四角い枠の中に、名が入る。
紙は、淡い黄である。
六人の歌人という、揃い
古い歌人を六人ひと組で扱う型がある。
九点のうち二点が、その型に属する。
一点は、その揃いの中の一枚だ。
もう一点は、題に揃いの名は入らない。
しかし、同じ考え方で作られている。
六人ぶん作れば、六枚の揃いになる。
買う人は、集めたくなる。
前の回で、揃い物の話をした。
歌人の名を割り当てるやり方も、その一つである。
古い歌を、当世の姿に置き換える
九点のうち二点は、一枚摺の版画である。
どちらも、題に昔の歌人の名が入る。
そして、その人の歌が画面の上に刷られる。
ところが、描かれているのは当世の人物だ。
つまり、古い歌を今の姿で描いている。
見立て、と呼ばれる方法である。
前の回で見たもじりと、考え方が近い。
元の歌を知っていれば、二重に楽しめる。
館の題は、歌人の名だけを書く。

縦長の版画である。
右に、若い女性が立つ。
明るい色の着物を着る。
背に、大きな籠を負う。
その左手前に、もう一人がしゃがむ。
台の前で、道具を使う。
台の上に、細い棒が立つ。
その下に、小さな器が置かれる。
背後の左に、暗い戸口がある。
右奥は、緑の地面である。
画面の上に、歌が二行入る。

縦長の版画である。
中央に、二人の女性が立つ。
どちらも、細かい模様の着物を着る。
一人が、大きな傘を差しかける。
もう一人は、傘の下に立つ。
足もとに、白い草履が見える。
右に、赤い柱が立つ。
その根もとに、黒い桶が置かれる。
左下に、小さな松と石がある。
奥に、低い建物が見える。
画面の上に、歌が数行入る。
見えない技を、記録が拾う
空摺は、写真ではほとんど写らない。
凹凸だけだから、光の当たり方で消える。
現物を斜めから見れば、分かる。
正面から見れば、分からない。
つまり、実物を手にした人しか気づかない。
館の技法の欄が、それを書き留める。
書いておかなければ、伝わらない。
前の回で、記録が見えないものを書く話をした。
同じ働きが、ここでも起きている。
空摺という、色のない摺り
いま見た一点の技法の欄には、空摺とある。
絵具を付けずに、版で紙を押す。
すると、紙に凹凸だけが残る。
色は付かない。
光を当てると、模様が浮かぶ。
着物の白い部分などに使われる。
つまり、見えにくい装飾である。
館は、それを技法の欄に書く。
見えにくいものほど、記録に頼ることになる。
摺り物の紙の、大きさ
九点の版画の寸法を見ておく。
一点は縦26.8センチ、横20.8センチ。
一点は縦27.6センチ、横20.3センチ。
館の記録には、中判という語も添えられる。
決まった紙の大きさの名である。
この判型は、紙を効率よく使うために決まった。
前の回で、判型の話をした。
歌を刷るには、上に余白が要る。
だから、縦長の判型が選ばれる。
紙の大きさが、書ける歌の長さを決める。
歌が、画面のどこに来るか
九点の詩の位置を、まとめておく。
画面の上部が、五点。
余白の右上が、二点。
器の側面が、一点。
石の面が、一点。
つまり、多くは上に置かれる。
上から下へ読む書き方だから、自然である。
そして、絵は下にある。
見る人は、まず歌を読み、それから絵を見る。
あるいは、絵を見てから歌に戻る。
文字が、絵と同じ大きさになるとき
九点の中で、文字がいちばん大きいのは掛軸の一点だ。
四文字ほどが、画面の幅いっぱいに書かれる。
これは、もはや添え物ではない。
文字そのものが、見るものになっている。
前の回まで、西洋の絵の文字を見てきた。
いずれも小さく、隅にあった。
こちらでは、文字が主役になりうる。
同じ画面の中で、書と絵が対等である。
誰が、その歌を読んだのか
狂歌の本は、大量に作られた。
つまり、読む人が多かったということだ。
滑稽な歌を作り、集まって披露する。
そういう集まりが、町にいくつもあった。
絵入りの本は、その集まりの記念でもある。
自分の歌が本に載る。
だから、買う人がいる。
九点のうち二点は、そういう本である。
館は、部門の欄に絵入り本と書く。
絵と本の、どちらでもある。
記録が、詩を写さないこと
館の欄は、詩の内容を写さない。
題に詩という語を入れるだけである。
前の回まで見てきた欄とは、扱いが違う。
西洋の絵の短い銘記は、全文が写された。
こちらの詩は、長い。
一つの掛軸に、何十行も入る。
全部を写せば、欄が埋まってしまう。
だから、題で示すだけにする。
読みたい人は、現物に当たることになる。
詩を読むための、時間
詩が書かれた作品は、見るのに時間がかかる。
まず、文字を読む。
崩した字なら、読むのに苦労する。
読めたら、意味を考える。
それから、絵を見る。
そして、両方の関係を考える。
つまり、何段階もの作業がいる。
前の回で、四十八行を書き写した絵を見た。
同じことが、こちらでも起きている。
長く向き合うための作品である。
長さが、記録の形を変える
同じ書かれた文字でも、長さで扱いが変わる。
数語なら、そのまま写せる。
数十行なら、写せない。
そこで、題や説明で示す。
つまり、記録の形は中身の量で決まる。
前の回で、行数を斜線で示す例を見た。
こちらは、行数すら書かない。
分量が多すぎて、要約するしかない。
要約は、判断である。
判断が入るところに、記録の限界がある。


