甘さは、どこから来たのか——ルノワールの肌と光
印象派の一員として
1860年代、彼はモネやシスレーと知り合う。
1870年代には、屋外で光を追う制作に加わった。1874年の第一回印象派展にも出品している。
この時期の代表作には、木漏れ日の下の群衆や、舟遊びの人々を描いた大作がある。
いずれも、光が斑になって人物の上に落ちる画面である。
木漏れ日を人物の顔や服に落とす、という描き方は当時かなり批判された。
顔に青や紫の斑を置くと、腐った肉のようだ、という趣旨の評が残っている。
いま見れば快い画面だが、発表当時は「汚い」と受け取られた。
評価は動く。快さの基準も、時代によって変わる。

同じ時期の小品を見てほしい。
女優の肖像のための習作である。ただし、顔の造作はほとんど描かれていない。
橙と赤の塊が髪、桃色と白の塊が顔と胸元、青緑の乱れた筆が背景。
目も鼻も口も、判別できない。画布の目地が絵具の隙間から見えている。
これは色の配置を試した段階の絵である。完成作ではない。
にもかかわらず、離れて見ると人物に見える。色の配置だけで、人の形が立ち上がっている。
この時期の彼が、色を第一に考えていたことがよく分かる一枚だ。
そして、この習作が美術館に収蔵されているという事実も面白い。
本人にとっては途中の紙——ならぬ途中の画布である。完成作ではない。
それが作品として保存され、展示され、いま私たちが見ている。
同じことは素描でも起きている。捨てられるはずのものが残った経緯は別のコラムで扱っている。
三十代の終わりに、行き詰まる
ところが1880年ごろから、彼は自分の方法に疑いを持ちはじめる。
後年の回想として伝えられているのは、およそ次のような趣旨である。
印象派のやり方を続けた結果、自分は描き方も素描もできなくなってしまった、と。
色を並べることに集中しすぎて、形が崩れたという自覚である。
1881年から82年にかけて、彼はイタリアへ旅行した。ローマでラファエロを見て、ポンペイの壁画を見ている。
そして帰国後、画風が変わる。
ラファエロについて、彼が友人に書いた手紙が伝わっている。
大意はこうだ。ラファエロは屋外で仕事をしなかったが、太陽を研究している。その壁画には、単純さと偉大さがある。
屋外で光を追わなくても、光は描ける——という発見だったのだろう。
同じ旅で、ポンペイの壁画も見ている。こちらは輪郭のはっきりした、平らな色面による装飾画である。
印象派の細かい筆触とは正反対の様式だ。
この二つを見て帰った画家が、翌年に何を描いたか。それが次の一枚である。
輪郭が、戻ってくる

イタリアから帰った翌年の作品である。
女性が草の斜面に横たわり、こちらへ背を向けている。編んだ髪を左手で押さえ、顔は伏せられている。
右上に、海と空がわずかに見える。
肌に注目してほしい。なめらかである。
筆の跡がほとんど見えない。色の変化は連続的で、輪郭はきれいな一本の線になっている。
草地は逆に、赤、橙、緑、褐色が乱雑に置かれている。
つまり人物と背景で、描き方を切り替えている。人物は古典的に、背景は印象派的に。
この時期の作品は、後世「アングル風の時代」あるいは「酸っぱい時代」と呼ばれることがある。
輪郭が硬く、色がやや冷たい。彼の作品の中では、異質な部類に入る。
もう一点、この絵で目を引くのは姿勢である。
人物は完全に背を向けている。顔はほとんど見えない。
見る側は、この人が誰なのか、何を考えているのかを知る手がかりを与えられない。
その結果、画面に残るのは形だけになる。背中から腰へ流れる曲線と、それを受ける草地の斜面。
人物画でありながら、静物に近い扱いである。
形の問題に集中したかった時期の絵として読むと、この姿勢の選択にも理由が見えてくる。
硬さは、長く続かなかった
この方向は、十年ほどで緩む。
1890年代に入ると、輪郭はふたたび柔らかくなり、色は暖かくなる。
ただし、1870年代に戻ったわけではない。
形は保たれたまま、色が戻ってきた。二つの時期の折衷である。

これも手のひらに乗る大きさである。
少女はうつむき、髪を後ろでまとめている。頬は桃色、髪は赤褐色。
白い衣が画面の中央を占め、そこに青と桃色の影が置かれている。
背景は右が橙、左が灰緑。絵具は厚く、筆の跡が畝のように残っている。
顔の輪郭は、はっきり取られている。1870年代の習作のように溶けてはいない。
形は保ちつつ、色は暖かい。二つの時期の折衷が、この小品によく出ている。