作品を知る

夕方が八点、朝は一点——バンス・シャントルイユ・ビーチほか九点

水平線は、低く引かれる

夕方の絵で、地平線や水平線の高さを見たい。

画面の下から三分の一より低いのが、四点。

半分あたりが、二点。

線のないのが、三点である。

低く引くと、空が広くなる。

夕方の絵では、空が主役だから当然かもしれない。

いちばん低いのは、泥灰土の採掘場だった。

線は下から三分の一のあたりにある。

しかも、幅が高さの二倍以上ある。

つまり、横に長く、空が広い。

その空に、細い雲が幾筋も並ぶ。

雲は下から照らされ、橙になっている。

雲がなければ、空は一色になってしまう。

雲があることで、光の当たり方が見える。

夕方の絵に雲が多いのは、そのためだろう。

九点のうち、雲が描かれているのは五点だった。

そして五点とも、雲の下側が明るい。

太陽が低い位置にあるので、下から照らされる。

昼の雲は、上側が明るい。

その差が、時刻を示している。

館の記録は、雲について何も書かない。

読めるのは、画像からだけである。

数え直す

九点を並べ直したい。

夕方が八点、朝が一点。

太陽が描かれているのは、三点。

光だけが描かれているのは、五点である。

水面が光を映しているのは、三点。

そして、色のない作品が三点あった。

版画、写真、そして大理石である。

夕日の色は、黄と橙である

色のある六点で、空の色を見たい。

黄が使われているのは、五点。

橙が使われているのは、四点。

桃色が使われているのは、二点。

青が残っているのは、三点である。

つまり、夕方の空はほぼ黄と橙で描かれる。

赤を強く使った画面は、一点もなかった。

実際の夕焼けは、もっと赤くなることがある。

だが九点では、赤が抑えられている。

理由は、絵具の事情かもしれない。

赤い顔料は、退色しやすいものがある。

あるいは、赤を強く使うと画面が重くなる。

黄と橙のほうが、光として読みやすい。

そして、その黄は水面にも映る。

三点で、水が空と同じ色になっていた。

上下が同じ色になると、画面は静かになる。

境目が消え、広がりだけが残る。

夕方の絵が静かに見えるのは、そのためだろう。

夕方の絵は、横長になる

判型を並べておきたい。

夕方の八点のうち、横長が六点である。

縦長は二点だった。

そのうち一点は掛幅で、形式として縦が決まっている。

もう一点は写真で、人物を撮ったものである。

つまり、風景として夕方を描いた六点は、すべて横長だった。

理由は、水平線にある。

夕方の光は、水平線の近くから来る。

その光を見せるには、水平方向の広がりが要る。

縦に長い画面では、水平線が短くなる。

短い線では、広がりが伝わらない。

前に海や畑を扱った回でも、同じ話をした。

平らな広がりを見せる主題は、横長になる。

夕方も、その仲間である。

例外の掛幅では、水平線が一本も描かれていない。

代わりに、岩山が縦に積み上がる。

夕日は題にあるだけで、画面には見えない。

つまり、形式が主題の表し方を変えている。

縦長の画面には、縦長の主題が入る。

その原則は、この連載で何度も出てきた。

光は、横から来る

日の出と日の入りの絵には、共通の性質がある。

光が横から来ることである。

真上からの光なら、影は足もとに落ちる。

横からなら、影は長く伸びる。

九点で、長い影が描かれているのは二点だった。

意外に少ない。

理由は、多くの画面が逆光だからである。

太陽のほうを向いて描くと、影はこちらへ伸びる。

つまり、手前に伸びて画面から出てしまう。

見えるのは、物の暗い側だけである。

九点のうち五点が、その状態だった。

木も、船も、風車も、暗い影として描かれる。

明るいのは、空と水だけである。

つまり夕方の絵は、逆光の絵でもある。

輪郭がはっきりし、内側の細部が消える。

前に霧や夜を扱った回でも、細部が消えていた。

条件は違うが、結果は似ている。

記録は、時刻を書かない

最後に、記録の欄を確かめておきたい。

九点の記録に、時刻の欄はない。

時刻は、題にだけ現れる。

日没、夕暮れ、宵、暁。

九点すべての題に、その語がある。

つまり、時刻は主題として扱われている。

だが、何時何分かは分からない。

日没の時刻は、季節と土地で変わる。

館の記録には、撮影地や制作地が書かれることがある。

だが、日付までは書かれない。

例外は、制作年が二十年の幅を持つ一点だった。

1912年から32年、と記録にある。

その間のどこかで描かれ、手を入れられた。

つまり、一日の時刻どころか、年も定まっていない。

夕暮れを描いた絵が、二十年かけて作られている。

そのことが、記録から読める。

画面からは、まったく分からない。

そして今回、いちばん驚いたのは朝の少なさだった。

九点のうち、朝は一点だけである。

しかもそれは、風景ではなく彫刻だった。

大理石で彫られた《暁》である。

つまり、朝の風景画は一点も集まらなかった。

これは、集めかたの偶然かもしれない。

だが、夕方の語のほうが多いのは確かである。

日本語でも、夕方を指す語は多い。

夕暮れ、たそがれ、日暮れ、宵、薄暮。

朝を指す語は、明け方、暁、払暁、朝ぼらけ。

数としては近いが、絵の題に使われる頻度が違う。

夕方の語は、日常でもよく使われる。

朝の語は、詩の言葉に寄る。

その差が、題の付き方に出ているのかもしれない。

もっとも、これは推測である。

確かめるには、両方の語で全所蔵を数える必要がある。

今回できたのは、九点の照合までである。

その九点で分かったのは、夕方が八点、朝が一点。

太陽が描かれるのは三点、光だけが五点。

空の色は黄と橙で、赤は使われない。

水平線は低く引かれ、判型は横長になる。

そして雲の下側が明るい。

いずれも、画像を見れば数え直せることである。

数え直せることだけを書くのが、この連載の方法である。

推測は推測として、はっきり分けて書いた。

朝の絵が少ない理由は、その推測の側にある。

数えられたのは、九点のうち一点という比率だけである。

その比率が何を意味するかは、まだ言えない。

別の九点を集めれば、逆の比率になるかもしれない。

そのときは、そのときで数え直せばよい。

数え直せる形で書いておくのが、この連載の作法である。

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