背中は、名前を消す面である——テル・ボルフ・マイヨール・蕪村ほか九点
背を向けて立つ男、背後から見た女、待つ姿の松宵。背中の九点を数えると、人の背が写るのは六点で、うち三点は工房の習作だった。顔は名前を出し、背中は名前を消す。だから項の後ろには、画家が自分の署名を隠していた。

背中しか、描かれていない
黒チョークの素描である。
紙は28.9×15センチ。
縦に細長い。
男が一人、立っている。
こちらに、背を向けている。
顔は、見えない。
頭は、わずかに右へ傾く。
髪は、肩まで届く。
首の後ろで、束ねられていない。
上着は、腰までの丈である。
背の中央に、縫い目が一本走る。
その左右に、皺が寄る。
皺は、肩から腰へ斜めに流れる。
腰のあたりで、布がたるむ。
下は、膝までの短袴である。
長靴を履いている。
靴の筒が、太い。
左の腕は、体の脇にある。
右の腕は、前へ回っている。
何を持っているかは、見えない。
足は、左右に少し開く。
影は、床に落ちていない。
背景は、紙の色のままである。

館の記録に、説明の文はない。
分類は、オランダの素描である。
題は、見た方角を言っているだけである。
背後から見た、立つ男。
誰かは、書かれていない。
背中を向けているのだから、誰かはわからない。
わからないまま、題になっている。
ここに、背中の絵の性質がある。
顔の絵は、必ず誰かの絵になる。
背中の絵は、誰でもない人の絵になれる。
九点の最初に、これを置く理由である。
背中は、名前を消す面である。
消された名前は、題の中にも戻ってこない。
立つ男、座る男、酒飲み。
どれも、種類の名でしかない。
座る男の、後ろ姿
赤チョークの素描である。
紙は27.8×17.8センチ。
男が一人、腰を下ろしている。
こちらに背を向ける。
体は、右へひねられる。
顔は、右の肩ごしに見えかける。
しかし、輪郭だけである。
目も鼻も、描かれていない。
背中は、大きな面になる。
衣は厚く、襞が深い。
襞の線は、太い。
肩から腰へ、幾筋も下りる。
腰から下は、布が床に広がる。
右の足は、前へ投げ出される。
左の膝は、立てられている。
腕は、体の前にある。
肘だけが、脇から出ている。
画面の右上に、別の形がある。
同じ人物の、頭部だけの描き直しらしい。
白チョークが、背の高いところに置かれる。

館の説明は、この種の素描の用途を書いている。
一六〇〇年代の終わりごろ、宗教画の画家たちは考えた。
教会の装飾を、一般の会衆に届くものにしたい。
そのために、劇的な身振りと観察された細部を使った。
そこで、こうした人物の習作が要る。
工房の助手に、姿勢を取らせて描く。
日常の人の衣と体つきを、そこから取る。
つまり、この背中は助手の背中である。
しかし完成した絵では、聖人の背中になる。
背中は、置き換えがきく。
顔を描けば、助手が助手のまま残ってしまう。
背中なら、誰にでもなれる。
館はさらに、赤チョークについても書く。
一六〇〇年代には、生きた模特児を描くのによく使われた。
肌の色に近いからだろう。
この素描でも、衣の襞に赤が効いている。
白のチョークは、高いところにだけ置かれる。
背の中央が、いちばん明るい。
光は、左上から来ている。
背の線だけで、体を作る
石版画である。
赤茶の一色で刷られている。
女が一人、座っている。
こちらに背を向ける。
頭は、右へ傾く。
髪は、後ろで丸くまとめられる。
うなじが、露わになる。
背中の中央に、浅いくぼみが走る。
背骨の線である。
肩甲骨は、はっきりとは出ない。
肉づきが、それを覆う。
腰のあたりで、体が最も細くなる。
その下で、また広がる。
下半身には、布が掛かる。
布の線は、数本しかない。
輪郭は、太く一度で引かれる。
線の中に、迷いがない。
濃淡は、ほとんどない。

館の説明は、この画家の関心を書いている。
女の体の官能的な曲線を伝えようとした。
彫刻家として、記憶と素描の両方から作った。
裸体の習作を数多く残している。
彫刻の直接の下絵ではないものも多い。
そして、本人の言葉が引かれている。
大事なのは、全体の観念だ、と言った。
自分は美を求めているのであって、性格ではない。
この言葉は、背中の絵によく合う。
性格は、顔に出る。
背中には、出ない。
出ないから、全体の観念だけが残る。
前の二点は、誰かの代わりの背中だった。
この一点は、誰でもない背中である。
誰でもないから、題も短い。
背後から見た女、それだけである。
館の記録には、寸法の欄すらない。
刷られた年も、四十年の幅で書かれている。
彫刻家の刷った石版は、記録が薄くなりやすい。
背の曲がった、酒飲み
腐蝕銅版である。
版の跡は6.3×8.5センチしかない。
切手を二枚並べたほどである。
男が一人、立っている。
こちらに背を向ける。
しかし、まっすぐ立っていない。
背が、大きく丸い。
肩の位置が、頭より高い。
首は、肩のあいだに埋もれる。
帽子が、頭に載る。
つばが広く、後ろへ跳ね上がる。
右手は、高く上げられる。
その手に、杯がある。
左手は、下へ垂れる。
その手に、瓶がある。
瓶は、丸く膨らむ。
編んだ籠に、包まれている。
脚は短く、膝が曲がる。
靴の先が、外を向く。
影が、足元から右へ伸びる。