雲の上に、人が座る——クロス・バロッチ・龔賢ほか九点
雲は、画面のどこにあるか
雲の位置を数えたい。
画面の上のほうにあるのが、四点。
画面の中ほどを横切るのが、二点。
画面のほぼ全体を占めるのが、一点である。
上にあるのは、当たり前に思える。
雲は空にあるからだ。
だが、中ほどを横切る二点は違う。
山の中腹に雲がある。
つまり、見る位置が雲より高い。
山の上から見下ろしているか、雲が低く垂れている。
東アジアの山水では、この配置がよく使われる。
雲を中ほどに置くと、画面が上下に分かれる。
下は近く、上は遠い。
その差を、雲一本で作れる。
これは便利な方法である。
遠近法を使わずに、距離を示せる。
前に廊下や階段を扱ったときは、線の集まり方で距離を作っていた。
雲は、線を使わずに距離を作る。
白い帯を一本入れるだけでよい。
九点のうち二点が、その方法を使っていた。
雲は、白く残されるか、色で塗られるか
数えた結果から、一つのことが言えそうである。
雲の描き方は、空の描き方と同じく二つに分かれる。
塗るか、残すかである。
東アジアの二点では、雲は塗られていない。
紙の地を残し、周りに墨を置く。
その結果、雲は完全に白くなる。
輪郭線を引く場合もある。
一点では、雲の縁が細い線で描かれていた。
ヨーロッパの五点では、雲は塗られている。
桃色、橙、青紫、灰色、白。
とくに十九世紀以降の三点では、雲に色が付く。
夕方の光を受けた雲である。
同じ雲でも、白いか色付きかで印象が変わる。
白い雲は、空間を切る。
色の付いた雲は、光を示す。
前者は距離の道具、後者は時刻の道具である。
九点は、その二つに分かれていた。
雲は、立つ場所にもなる
もう一つ、数えたことを書いておきたい。
雲の上に人がいる二点である。
どちらも、宗教にかかわる主題だった。
雲の上に立つのは、地上の人ではない。
そのことを示すために、雲が使われている。
雲は、地面ではないが面である。
面であれば、その上に何かを置ける。
だが実際には、雲の上に立つことはできない。
だから、雲の上に立つ姿は現実ではないと分かる。
これは、絵の約束の一つである。
同じ約束は、東アジアの絵にもある。
ただし今回の東アジアの二点では、雲は山を隠すためにあった。
同じ雲が、地域によって違う役目を負っている。
隠すか、載せるか。
その差は、記録の欄には出てこない。
出てくるのは、題のなかの雲の語だけである。
記録は、雲の種類を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、雲の種類を書く欄はない。
積雲か、層雲か、巻雲か。
そういう分類は、どこにも出てこない。
書かれるのは、材と寸法と番号と出所である。
例外は、記述の欄だった。
一点で、館は雲が夕日に照らされていると書く。
もう一点では、雲が谷へ戻った霧だと詩が言う。
いずれも、天気の観察ではない。
前者は光の説明、後者は詩の一部である。
つまり、記録は雲を気象としては扱わない。
扱うのは、画面の要素としてである。
そして今回、いちばん詳しかったのは技法の欄だった。
パステルの一点では、紙の色の変化まで書かれている。
青灰色だった紙が、褐色に変わったという。
雲の色も、それに応じて変わっているはずである。
見えている色は、百年ぶんの変化を含んでいる。
その注記があるかないかで、画面の読み方が変わる。
紙の色が変われば、その上の色も違って見える。
青灰色の紙に置いた橙と、褐色の紙に置いた橙は別の色になる。
いま見えているのは、後者である。
作られた当時は、もっと青みが強かっただろう。
雲の絵にとって、これは小さくない差である。
雲の色は、周りの空の色との関係で決まるからだ。
館は、その変化を推測せずに、事実として書いている。
紙が褐色に変わった、とだけ書く。
どう見えていたかは書かない。
書けば推測になるからだろう。
当社も、そこは同じ扱いにした。
見えている色を書き、変化があったことを添える。
それ以上は書かない。
雲は、そもそも変わり続けるものである。
一分ごとに形を変え、色を変える。
絵はその一瞬を止めるが、紙のほうも変わっていく。
止めたはずの雲が、百年かけてまた色を変える。
九点のなかで、そのことがはっきり分かるのは一点だけだった。
残る八点でも、同じ変化は起きているはずである。
館が書いていないだけである。
書くには、調べる必要がある。
調べたものだけが、記録に残る。
そして記録に残ったものだけを、当社は書ける。
今回の九点で数えたのは、雲の形と位置と色である。
形は三通り、位置は三通り、色は白か色付きか。
いずれも、画像を見れば誰でも数え直せる。
数え直せることだけを書く。
その方針は、この連載を通して変えていない。
雲のように形の定まらないものでも、数えられることはある。
七点のうち四点が記号としての雲だった、という数字がそれである。
記号としての雲は、覚えて描ける。
渦を巻いた線を並べれば、雲になる。
観察した雲は、その場でしか描けない。
同じ空は二度と現れないからである。
だから記号の雲は、工房で作られた作品に多い。
観察の雲は、屋外で描かれた作品に多い。
九点でも、その分かれ方がおおむね一致していた。
版画と、東アジアの掛幅が記号の側にある。
パステルと油彩と水彩が、観察の側にある。
もっとも、どちらが良いという話ではない。
記号の雲には、記号としての正確さがある。
見た人が雲だと分かることが、その正確さである。
そして、その分かりやすさのおかげで、雲は文様にもなれる。
今回の九点には、雲の文様を彫った器が一点あった。
渦を巻いた形が、帯になって胴を一周する。
実際の雲には、そんな規則性はない。
それでも、雲の文様だと分かる。
記号として定まっているからである。
自然の形を、人が扱える形に整える。
文様とは、その作業の結果である。
九点のうち、その作業まで進んでいたのは一点だけだった。
残る八点では、雲はまだ空にある。
空にあるうちは、形が定まらない。
定まらないものを、九通りの手で写した記録が今回の九点だった。










