作品を知る

緑は、揺れることで効く——ドア・ブリオーニ・モーリス・ドニほか九点

緑の服が、緑の地に沈む

四点目は、肖像である。

緑のドレスのエヴァ・ムーリエ
モーリス・ドニ《緑のドレスのエヴァ・ムーリエ》1891年。館の記録では、油彩・カンヴァス。全体は55×38センチ。番号は2002.92。クリーヴランド美術館蔵。モーリス・ドニ《緑のドレスのエヴァ・ムーリエ》クリーヴランド美術館蔵

縦長の小さな画面である。

55×38センチしかない。

背景は、濁った黄緑である。

その中に、桃色の小さな花が点々と散る。

白い花も混じる。

中央に、女性が横向きに座っている。

顔は左を向き、目を伏せている。

髪は黒く、頭の上でまとめられている。

着ているのは、濃い緑のドレスである。

面には、細かい縞と点が並ぶ。

裾は床に広がり、画面の下を埋める。

膝の上で、両手が組まれている。

指は細く、丁寧に描かれている。

館の記録では、優雅に組まれた手は、この人の音楽の才を示している。

作者の義理の姉妹にあたり、優れた奏者だったという。

そして館は、支持体について重要な一行を添えている。

この肖像は、放棄された別の絵の断片の上に描かれた。

構図の縁のあたりに、その痕跡が現れる。

まるでこの人の肖像が、別の絵から不思議に現れてくるようだという。

館の記録は、そう読んでいる。

つまり緑の地の下には、別の絵がある。

九点のうち、下に別の絵が隠れているのは、この一点である。

背景の黄緑と、ドレスの濃い緑は、同じ系統の色である。

その二つを近づけると、人物は地に沈みかける。

沈まないのは、白い顔と手があるからである。

つまり緑は、顔と手を浮き立たせるために広く敷かれている。

そして背景の花は、模様のように平らに置かれている。

奥行きを作らないという選び方である。

平らな地の上に、平らな衣がある。

そのあいだで、手だけが立体として描かれている。

傘は、題では緑である

五点目では、題と画面が食い違う。

緑の日傘の女
フレデリック・F・ファーズマン《緑の日傘の女》1908年。館の記録では、油彩・カンヴァス。画面は78.8×63.5センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。フレデリック・F・ファーズマン《緑の日傘の女》スミソニアン協会蔵

縦長の画面である。

78.8×63.5センチある。

下半分は、明るい緑の草地である。

筆触は縦向きで、黄と緑が交互に置かれる。

中央に、女性が座っている。

白い長い衣を着て、裾が草の上に広がる。

頭には白い布をかぶる。

顔は下を向き、目を伏せている。

手には、開いた傘の柄を持つ。

傘は大きく、女性の背より高い。

傘の面は、青みを帯びた灰色である。

骨の線が放射状に走る。

奥には水があり、その向こうに岸が続く。

岸には、人影が小さく見える。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

題には、緑の日傘という語がある。

しかし画面の傘は、緑には見えない。

草地のほうが、はっきりと緑である。

つまり題の緑と、画面の緑は同じ場所にない。

九点のうち、題の色が画面と食い違うのは、この一点である。

もっとも、傘の布は光を透かしている。

草地の緑が下から映り込めば、灰色は緑に寄る。

つまり題は、実際にその場で見えた色を指しているのかもしれない。

写真に残る色と、目に見えた色は違う。

館の記録は、そこまでは書いていない。

書かれているのは、題と、油彩とカンヴァスであることと、寸法だけである。

そして草地の筆触は、色を混ぜずに並べて置かれている。

離れて見ると、その並びが混じって明るい緑になる。

山の名に、緑の字が入る

六点目は、画帖の一葉である。

ビーイエン山(緑の崖)
宋旭《ビーイエン山(緑の崖)》1588年ごろ。館の記録では、絹本着色の画帖の一葉。紙は26.4×28.4センチ。番号は1998.78.4。クリーヴランド美術館蔵。宋旭《ビーイエン山(緑の崖)》クリーヴランド美術館蔵

ほぼ正方形の小さな画面である。

26.4×28.4センチしかない。

画面の上のほうに、山が連なる。

山肌は淡い緑がかった灰色である。

その上に、濃い墨の点が密に打たれている。

点は木を表している。

中ほどには、細い川が横に流れる。

川の手前には、竹の林が広がる。

竹は細かい縦線で表され、上に葉が付く。

左には、木が数本立つ。

その根元に、小さな建物がある。

左下には、文字が縦に書かれている。

館の記録では、この画帖はある町のまわりの名所を描いている。

作者はその町の出身ではないが、注文を受けて訪れたはずだという。

十八の眺めをすべて丁寧に描き、それぞれに注記を書いた。

そして館は、この一葉の注記を訳している。

緑の崖の山には、かつて原生の森があり、その中に寺が隠れていた。

いまでは、その原生の森はほしいままに、すっかり伐られてしまった。

そのため、荒れた姿となり、訪れる者は少ない。

それでも、峰と崖と滝があり、景色の美しさに欠けるところはない。

館の記録は、そう訳している。

つまり題にある緑は、いま失われた森の色である。

前の回で見た黄龍洞の一葉は、同じ画帖の別の一枚だった。

同じ画家が、同じ大きさの絹に、十八の場所を描いている。

そして注記は、名所案内の文体をしている。

由来を述べ、いまの状態を述べ、それでも見どころがあると結ぶ。

つまりこの一葉は、絵であると同時に案内文である。

緑という語は、その案内文の中で二度働いている。

一度は山の名として、一度は失われた森の色として。

画面の緑は、そのどちらでもない。

絹の上に薄く刷かれた、灰色に近い緑である。

緑の眼が、黒一色で刷られる

七点目には、緑がない。