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緑は、揺れることで効く——ドア・ブリオーニ・モーリス・ドニほか九点

緑の眼のキマイラは振り向き、吠える
オディロン・ルドン《緑の眼のキマイラは振り向き、吠える》1888年。館の記録では、石版。番号は1927.477.8。クリーヴランド美術館蔵。オディロン・ルドン《緑の眼のキマイラは振り向き、吠える》クリーヴランド美術館蔵

黒と灰色だけの版画である。

画面の上半分は、ほとんど黒く塗り込められている。

その黒の中に、輪郭のはっきりしない塊がある。

翼のようにも、岩のようにも見える。

下半分は、明るい灰色から白へ移る。

その明暗の境目に、細長い形がある。

首を伸ばした獣らしい。

顔の部分には、白く抜かれた小さな点がある。

目である。

体の輪郭は途中で消え、地に溶ける。

石版のクレヨンの粒が、面に残っている。

館の記録では、この組はある小説に着想を得た三つの組の一つである。

砂漠の隠者が受ける戒めの試みを語る空想的な内容に惹かれ、作者は木炭の素描を描いた。

そして、その画材の濃い黒さを石版で呼び起こそうとしたという。

館の記録は、そう説明している。

さらに、この組の作は文章の内容そのものより、その暗い想像の調子にもとづく。

作り出された怪物と人物が、異界の場所に置かれ、階調が激しく変わる。

館の記録は、そう読んでいる。

そして刷り込まれた文には、緑の眼という語がある。

しかし版画には、黒と灰色しかない。

九点のうち、緑が一滴も使われていないのは、この一点である。

そして館は、当時の受け取られ方も書いている。

作者はこの版画が原作の世界をよく移せたと感じていた。

しかし同時代には、おおむね誤解されたという。

つまり色のない画面で、色の名を掲げることが理解されなかったのかもしれない。

刷り込まれた文は、版の番号と一行の題からなる。

その一行を読んでから、黒い画面を見直すことになる。

白く抜かれた小さな点が、そのとき眼になる。

見世の名にも、草地の名にも、緑がある

最後の二点で、緑は言葉になる。

扇屋滝川(青楼七小町より)
喜多川歌麿《扇屋滝川(青楼七小町より)》1797年か1798年。館の記録では、多色木版。紙は38.9×25.5センチ。番号は1985.361。クリーヴランド美術館蔵。喜多川歌麿《扇屋滝川(青楼七小町より)》クリーヴランド美術館蔵

縦長の版画である。

女がひとり、上半身を描かれている。

顔は右を向き、目を伏せている。

髪は高く結い上げられ、簪が放射状に幾本も挿してある。

髪は黒く、面として塗られている。

着物は白地で、肩から胸へ扇の形の模様が広がる。

模様は細い線でできている。

襟もとには、赤い布がのぞく。

背景は淡い色で、上に文字の枠がある。

緑は、どこにも使われていない。

館の記録では、この人はある見世の名高い遊女である。

湯上がりの姿だという。

そして館は、同じ画家による別の肖像と比べている。

姿勢と身ぶりと衣装によって、同じ人が別の気分に見えるという。

館の記録は、そう読んでいる。

題にある連作の名には、青い楼という語が入る。

英語では、それが緑の家と訳される。

つまり同じ場所を、二つの言語が別の色で呼んでいる。

青と緑を、はっきり分けない言語は珍しくない。

日本語でも、青信号や青菜のように、緑を青と呼ぶ言い方が残る。

つまり色の名は、色の見え方だけで決まっていない。

言葉の側の区切り方によって決まる。

この一枚には、緑も青も使われていない。

使われているのは、黒と赤と、紙の白である。

それでも題は、色の名を掲げている。

今や彼らは木立でも草地でも出会わない
アーサー・ラッカム《今や彼らは木立でも草地でも出会わない》1908年。館の記録では、紙の画板にペンと黒インク、水彩、掻き落とし、白のグワッシュ。紙は38.6×27センチ。番号は1954.651。クリーヴランド美術館蔵。アーサー・ラッカム《今や彼らは木立でも草地でも出会わない》クリーヴランド美術館蔵

縦長の画面である。

上半分は、渦を巻く雲である。

雲は灰色と褐色で、重く垂れ込める。

その下に、黒い木立がある。

枝は細かく分かれ、風に流れている。

画面の下、草の中に、二人の人物がいる。

左の人物は、淡い緑の衣をまとう。

体を低くし、右へ体を向ける。

右の人物は、赤い衣を着ている。

腕を前へ伸ばしている。

草は黄緑で、細かい筆で描かれる。

館の記録では、この素描はある戯曲の挿絵として作られた四十点の一つである。

森の中での二人の対決を描いているという。

そして館は、空について書いている。

作者は、この二人の上に荒れた空を描き、物語の気分に響かせた。

館の記録は、そう説明している。

題は、その戯曲の一行から取られている。

その一行にある語は、木立と、草の生えた場所を指す。

つまり緑は、場所の名として題に入っている。

数えてみると

九点を並べ直す。

緑が広い面として使われているのは、四点である。

皿の釉、草地、山肌、そして菩薩の肌。

衣の裏地として使われているのが一点。

肖像のドレスを加えれば、六点になる。

そして三点では、緑は画面よりも題の中にある。

見世の名、草地の名、そして眼の色。

そのうち一点には、緑が一滴も使われていない。

もう一つ数えておく。

九点のうち、緑が濃淡を持って揺れているのは三点である。

釉の流れた皿、山肌、そして草地。

いずれも、一様に塗られていない。

対して、菩薩の肌と衣の裏地は、平らに塗られている。

塗るか、流すか。

その差が、緑の見え方を二つに分けている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、緑が「動きやすい色」だということである。

釉として流れ、混ぜて作れば片方が褪せ、光の当たり方で濃さが変わる。

九点のうち三点で、緑は一様でない面として現れていた。

赤は面積で効き、黄は地になり、青は面になった。

緑は、そのどれとも違って、揺れることで効いている。

言えないのは、緑がつねに自然の色だという話である。

菩薩の肌の緑は、どの仏に属するかを示す印だった。

皿の緑は、釉の厚みが作った色だった。

そして三点では、緑は色ですらなく、場所と人の名だった。

最後に、はじめの皿へ戻る。

中央の白い浮き彫りは、まわりの緑よりわずかに高い。

高いところでは、釉が流れ落ちて薄くなる。

だから白い。

白く見えるのは、白い土のためだけではない。

緑が流れ去った跡でもある。

九点を数え終えて残るのは、その流れ去った側のほうである。

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