顔は、名前と交換される——英泉・ヴァロットン・アルガルディほか九点
紙いっぱいの美人の顔、名のない横顔と名のある横顔、手で引っぱって作る顔。顔の九点を数えると、記録が顔の中身まで読んだのは二点で、どちらも位の高い男だった。記録の量は、造作ではなく名の重さで決まっている。

顔だけが、紙いっぱいにある
錦絵である。
17.8×12.7センチしかない。
小さな紙である。
そこに、顔が一つだけある。
紙のほとんどを、顔が占める。
首から下は、わずかしかない。
肩の線が、下の縁で切れる。
顔は、やや右を向く。
輪郭は、細い線で引かれる。
肌は、白く塗り残される。
眉は、細く長い。
目は、切れ長である。
上瞼の線が、鼻のほうへ下りる。
鼻は、小さな鉤で示される。
口は、赤い。
下唇のほうが、厚い。
髪は、大きく張り出す。
左右に、翼のように広がる。
後ろに、櫛と簪が挿さる。
襟は、格子の文様である。
背景に、金の帯がある。

館の札は「頭部」と「女性たち」の二つである。
題は、美人の顔という。
つまり、顔が主題だと館が明示している。
これは、九点の中でめずらしい。
顔の絵は、たいてい人の名で呼ばれる。
誰それの肖像、という具合である。
顔そのものが題になるのは、名がない場合である。
名がなければ、顔だけが残る。
残った顔は、種類の名で呼ばれる。
美人、というのは種類の名である。
九点の最初に、これを置く理由である。
顔は、名前と交換できる。
名があれば顔は消え、名がなければ顔が題になる。
この一枚には、誰の顔かという情報がない。
版元も、役者名も、遊女の名もない。
残っているのは、髪の形と襟の柄だけである。
それでも、この顔は誰かの顔として描かれている。
描いた側は、見ていたはずである。
名のない、横顔
木炭と黒チョークの素描である。
紙は23.7×20.7センチ。
楕円の額に入る。
女が一人、左を向く。
完全な横顔である。
額は、高い。
鼻筋は、まっすぐである。
鼻の先が、わずかに上を向く。
上唇は、短い。
顎の線は、丸い。
首は、細く長い。
髪は、後ろで高く盛る。
その上に、大きな帽子が載る。
つばは広く、左右へ張る。
帽子に、大きな結びがある。
胸元に、白い布が幾重にも巻かれる。
衣の袖に、細かい襞がある。
背景は、灰色に塗りつぶされる。
右下に、茶のインクで署名がある。

館の説明は、この画家の仕事を書いている。
一七八三年から翌年まで、ある地方都市で働いた。
横顔の肖像を専門にしていた。
紙に書かれた年から見て、この若い女は貴族かもしれない。
ただし、誰かは特定されていない。
館はさらに、技法についても書く。
黒い線に、ぼかしを併せた。
粉を布や革で擦り、境目を消す方法である。
それによって、質感と調子の幅が広がる。
ここで注目したいのは、特定されていないという一行である。
顔は、はっきり描かれている。
輪郭も、鼻の形も、唇の厚みもわかる。
それでも、誰かはわからない。
顔は、名前の代わりにはならない。
顔を見ても、名は出てこない。
名を見れば、顔は思い出せる。
その向きは、一方通行である。
だから記録は、名を先に書く。
名がなければ、書き出しに困る。
名のある、横顔
ドライポイントの版画である。
版の跡は21.9×14.9センチ。
女が一人、右を向く。
やはり、完全な横顔である。
髪は、短い。
頭のまわりで、細かく波打つ。
耳は、髪に半分隠れる。
額は、狭い。
鼻は、小さい。
唇は、薄く、引き結ばれる。
顎から首へ、線が一気に下りる。
首には、細い襟がある。
肩は、なで肩である。
衣は、黒く沈む。
背景は、白い。
線は、細かく重なる。
濃いところは、線が密である。
左下に、年と頭文字が入る。

館の説明は、この人物の名を書いている。
エレーヌ・シャトネという、お針子である。
一八九〇年代に、画家の伴侶となった。
二人は巴里の学生街で暮らした。
しかし一八九九年、画家は別の女と急に結婚する。
そして、その家の暮らしに移った。
いっしょにいたあいだ、彼女はよく模特児になった。
この横顔は、二年前に素描としても描かれている。
前の一点と、形はよく似ている。
どちらも、真横からの顔である。
違うのは、記録に名があるかどうかだけである。
名があれば、その人の人生が記録に入る。
名がなければ、身分の推測だけが残る。
同じ横顔が、記録の量でまったく違うものになる。
この一点は、銅版に直接針で引いてある。
腐蝕を使わないので、線に毛羽が立つ。
その毛羽が、髪の質感に効いている。
版の作り方については、二つの摺りを比べるで扱った。
肖像の名については、名のない座り手で扱った。
顔を、作る
板に描かれた油彩である。
全体で13.7×10.5センチ。
手のひらに載る。
男が一人、こちらを向く。
肘を、台の上につく。
両手を、顔に当てている。
指で、頬を引っぱる。
口は、横へ広がる。
目は、細くなる。
眉は、寄せられる。
鼻に、皺が寄る。
顔が、ゆがんでいる。
頭に、毛皮の帽子をかぶる。
その脇に、羽根が一本立つ。
衣は、褐色である。
台の上に、小さな壺と瓶がある。
背景は、暗い灰色である。