遠いものは、七点で薄くなる——雪舟の周辺・王翬・レーンほか九点
遠いものは、薄くなる
数えた結果から、はっきり言えることがある。
遠くのものは、薄く描かれる。
九点のうち七点で、そうなっていた。
理由は、空気にある。
空気の層を通ると、光が散る。
だから遠くのものは、色が薄く、輪郭がぼやける。
その見え方を、絵はそのまま写している。
東アジアの五点では、薄い墨がその役をする。
濃い墨で手前、薄い墨で奥。
一色でありながら、距離が作れる。
ヨーロッパとアメリカの四点では、色が薄くなる。
遠くの山は青みを帯び、町は灰色になる。
前に遠近法を扱った回で、この方法に名があると書いた。
空気の遠近と呼ばれる。
線を一点に集める方法とは、別の規則である。
そして、こちらのほうが古くから使われている。
東アジアの絵では、線の収束を使わずに距離を作ってきた。
九点のうち五点が、その伝統に属する。
遠景は、画面の上にある
遠景の位置を数えたい。
九点とも、遠景は画面の上のほうにある。
これは当然に思える。
地面は下、空は上。
その間に、遠くのものが並ぶ。
だが、位置の高さには幅がある。
画面の上から四分の一のあたりが、五点。
画面の中ほどが、三点。
画面の上端すれすれが、一点である。
高く置くほど、手前が広くなる。
低く置くと、空が広くなる。
前に空を扱った回でも、地平線の高さを数えた。
そこでは、低く引くほど空が広いと書いた。
今回は、その逆の見方になる。
遠景を高く置けば、手前の土地が広くなる。
掛幅の三点では、遠景が高い位置にある。
そして手前に、木や竹や岩が大きく描かれる。
縦長の画面では、その配置が自然である。
下から上へ、近くから遠くへ進む。
倣うという言葉
東アジアの三点の記録に、共通する言葉があった。
倣う、という言葉である。
一点では、題そのものに入っている。
ある画家に倣う、と書かれている。
館の記述によれば、その画家の絵を何度も写したという。
しかも、写しには銘記まで含まれた。
そして、その銘記には、さらに前の画家を蘇らせたいと書かれていた。
つまり、三代にわたる引き継ぎである。
もう一点の詩にも、先人の名が出てくる。
疎林と遠山を見ると、その人の筆を思い出す、という内容である。
前に山や庭を扱った回でも、倣うという言葉を見た。
そこでは、倣うと書いてあっても似ていない例があった。
今回の一点では、館が忠実な写しだと書いている。
つまり、倣い方にも幅がある。
構図まで写す場合と、名だけ借りる場合。
館は、その区別を記述に書き分けている。
書き分けられるのは、比べる相手が分かっているからである。
記録は、距離を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、遠景までの距離を書く欄はない。
書かれるのは、材と寸法と番号と出所である。
距離が推せるのは、題からだけである。
山の名、町の名、岸の名。
その場所を知っていれば、距離が分かる。
だが、画面からは分からない。
前に山や塔を扱った回でも、同じことを書いた。
大きさも、距離も、記録には入らない。
入るのは、作品そのものの寸法である。
いちばん大きいのは、表装を含めて251.1センチの掛幅。
いちばん小さいのは、31.5×40.6センチの画帖の一葉である。
そして寸法の欄には、二通りの数字が並ぶことが多い。
画面と、表装を含めた全体。
東アジアの四点が、その形をとる。
前にも書いたが、この二つの数字は別のことを示している。
画面は絵の大きさ、全体は掛ける場所の大きさである。
遠景の絵では、その差がとくに大きかった。
画面が全体の三分の一以下の作品が、二点ある。
つまり、絵より表装のほうが広い。
遠くを描いた小さな画面が、大きな表装に包まれている。
これは、掛幅という形式の性質である。
床の間に掛けるには、一定の長さが要る。
画面が小さくても、表装で長さを足す。
その結果、絵より裂のほうが目立つこともある。
前に寺や霧を扱った回でも、同じ比率の話をした。
そのときも、画面が全体の四分の一という例があった。
今回も、二点で同じことが起きている。
つまり、東アジアの絵を寸法で比べるときは注意が要る。
画面の寸法と、全体の寸法。
その二つを混ぜると、比較が成り立たない。
館の記録が両方を書いているのは、そのためだろう。
そして今回、九点のうち五点が東アジアの作品だった。
これは、遠景という主題が東アジアの絵に多いからだろう。
薄い墨で遠くを示す方法が、早くから確立していた。
八景の題にも、遠い岸が入っている。
つまり、遠さそのものが主題として扱われてきた。
ヨーロッパとアメリカの四点では、遠景は題の一部にすぎない。
遠くに山を望む、遠くに市街を望む。
いずれも、主題は手前の道や港である。
同じ語で集めた九点が、主題の重みで二つに分かれていた。
そして、その分かれ方は判型にも出ている。
東アジアの五点のうち、四点が縦長である。
ヨーロッパとアメリカの四点は、いずれも横長だった。
縦長の画面では、遠景を上に置ける。
下から上へ、近くから遠くへ進む。
横長の画面では、遠景は水平線の上に並ぶ。
左右に広がるので、上下の移動がない。
同じ遠さでも、目の動き方が違う。
九点を並べると、その差がよく見えた。
縦の画面では、目が下から上へ動く。
横の画面では、目が左右に動く。
遠さの感じ方も、その動きで変わる。
上へ辿る遠さと、横へ辿る遠さ。
同じ薄い墨でも、置く位置で働きが違う。
九点は、その違いを並べて見せていた。
遠さは、置き方で作られる。
薄く描き、上に置き、手前に何かを重ねる。
その三つがそろえば、遠く見える。
九点は、いずれかの組み合わせを使っていた。
そして三つとも使っていたのが、掛幅の三点である。
手前に竹や木、中ほどに余白、上に薄い山。
その配置が、縦長の画面で繰り返される。
形式として定まっているから、見る側も読み方を知っている。
下から上へ辿れば、近くから遠くへ進む。
その読み方は、掛幅という形式に組み込まれている。
形式が読み方を決め、読み方が主題を決める。
遠景という主題が東アジアに多いのも、そのためだろう。
縦長の形式が、遠さを描くのに向いていた。
形式が先にあり、主題が後から入る。










