作品を知る

幹は縦、葉は塊——ルグロ・ロイスダール・探幽ほか九点の森

空は、どれだけ見えるか

森の絵で、空の見える面積を数えたい。

空がほとんど見えないのが、三点。

空が画面の半分近くを占めるのが、二点。

空が少しだけ見えるのが、二点である。

森の中に入ると、空は消える。

葉が上を覆うからだ。

外から見れば、空は広く見える。

つまり空の面積が、森との距離を示している。

いちばん空の広い一点は、外から見た油彩だった。

雲が画面の上半分を占めている。

その下に、木立が低く並ぶ。

これは、森の絵というより空の絵に近い。

逆に、いちばん空の狭い一点は森の中の場面である。

左上の隙間だけが明るく、そこ以外は葉で埋まる。

同じ「森」の語で集めた作品が、両端に分かれている。

前に山を扱ったときも、似た分かれ方があった。

麓から見るか、中腹に立つか。

場所の絵では、この距離の選択が最初の判断になる。

そして、その選択は題には書かれない。

書かれるのは、場所の名だけである。

距離は、画像を見て測るしかない。

森は、隠れる場所である

九点のうち、森が物語の舞台になったのは三点だった。

伝説の女性が隠れて暮らした森。

七人の賢者が世を避けた竹林。

そして、四人の老人が隠れた山である。

三点とも、隠れることが主題である。

これは偶然ではないだろう。

森には、隠れるのに向いた性質がある。

遠くが見えず、道がなく、上から見えない。

だから、逃れる人の行き先になる。

物語の側も、その性質を使ってきた。

東西で別々に生まれた話が、同じ場所を選んでいる。

館の記述は、その理由まで書かない。

書かれているのは、話の内容と、絵の由来である。

とくに屏風の記述は長かった。

七人が何をしていたか、四人がなぜ山へ行ったか。

そして、その主題が忠義の意味で使われたことまで書かれている。

隠れる話が、仕える者の徳の話に変わる。

そこまで書かれていると、画面の見え方も変わる。

竹林の七人は、遊んでいるのではない。

そう読ませるための絵として作られている。

幹は縦、葉は塊

森の描き方には、共通の型があった。

幹を縦の線で描き、葉を塊で描く。

九点のうち、森のある七点すべてがこの型である。

葉を一枚ずつ描いた画面は、一つもない。

理由は単純で、数が多すぎるからだ。

数百枚、数千枚の葉を一枚ずつ描くことはできない。

だから、塊として扱う。

塊の作り方は、材によって違う。

銅版画では、短い線を無数に重ねる。

油彩では、絵具の点を並べる。

墨の屏風では、竹の葉を数筆で示す。

いずれも、遠くから見れば葉に見える。

近くで見れば、線と点である。

これは、群衆の描き方と同じである。

前に群衆を扱った回でも、頭を点にしていた。

多すぎるものは、要素に還元される。

そして幹だけが、一本ずつ描かれる。

数えられるものは数え、数えられないものは塊にする。

その線引きが、森の絵の作り方である。

記録の年は、幅を持つ

今回の九点には、年の欄が変わったものが多かった。

活動期の全体が年として書かれているのが、一点。

二つの候補が「または」でつながれているのが、一点。

十年単位でしか書かれていないのが、三点ある。

つまり九点のうち五点で、年が確定していない。

これは、前の回よりも多い。

理由は、風景画の性質にあるかもしれない。

風景画には、日付を入れる習慣が薄い。

肖像画なら、注文の記録が残ることがある。

歴史画なら、出来事の年から推せる。

風景画は、その手がかりが少ない。

館は、分からない年を無理に決めない。

幅を持たせ、疑問符を付け、候補を並べる。

その扱いは、使う側にとってありがたい。

いつの絵か分からないことが、はっきり分かるからである。

記録は、木の種類を書かない

最後に、記録の欄を確かめておきたい。

九点の記録に、描かれた木の種類を書く欄はない。

例外は、屏風の一点だった。

題に、竹の語が入っている。

竹は木とは違うが、林として扱われている。

そして、その竹林には由来がある。

館の記述が、故事の内容を説明していた。

残る六点では、木の種類が分からない。

葉の形が、そこまで描かれていないからである。

秋の色をした木、暗い緑の木、枯れた木。

その程度しか読めない。

前に庭を扱った回でも、同じことを書いた。

植物の名は、記録の欄に入らない。

入るのは、絵具と紙と布の名である。

描かれた自然の名は、記録の外にある。

だから森の絵を見るときは、木の名を気にしないほうがよい。

数えられるのは、幹の本数と、明るい隙間の位置だけである。

それでも、九点を並べれば分かることはあった。

暗い画面が四点、明るい画面が三点。

幹が二本から二十本まで。

隠れる話が三点。

そして、林檎が二点。

最後の二点は、日本語に訳した結果として混じった。

もとの記録には、森の語はない。

当社の日本語題を作ったのは当社である。

その題で検索した結果、この二点が入ってきた。

つまり今回の外れは、当社側の事情による。

館の記録の側には、何の問題もない。

そのことは、はっきり書いておきたい。

翻訳は、検索の結果を変える。

同じ所蔵品を、英語で引くのと日本語で引くのとでは違う顔ぶれが出る。

英語で森の語を引けば、林檎は出てこない。

日本語で林の字を引けば、林檎が出てくる。

どちらが正しいという話ではない。

言語ごとに、語の切れ目が違うだけである。

当社は日本語の題を作る立場にあるので、この差を引き受けている。

引き受けたうえで、外れも並べることにしている。

並べれば、なぜ入ったかを説明できる。

説明できれば、読む人が判断できる。

今回の二点は、たしかに森の絵ではない。

だが、赤と黄の丸が並んだ卓の絵は、それ自体として面白い。

陶器の蓋付箱も、果実の形を器にした工夫が見える。

森の回に混じったおかげで、この二点に触れることになった。

外れには、そういう効き目もある。

決めた主題から少し外れたものが、思わぬ比較の相手になる。

今回でいえば、卓の上の丸と、葉の塊である。

どちらも、数えられるものを数えずに置いた画面だった。

卓の上の果実は、数えれば十個ほどある。

だが、数えることに意味はない。

葉も同じである。

数えられるが、数えない。

そこが、幹や柱との違いである。

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