名画の楽しみ方

場所のない画面で、五十回を閉じる——ファンタン=ラトゥール・ガルツォーニほか九点

五十回にわたって場所を数えてきた連載の最終回は、場所の描かれていない画面である。九点とも背景に場所がなく、七点は背景が暗い。物が載る卓の面だけが、静物における唯一の場所だった。背景を消すことが、物を見せる方法だった。

静物 テーブルの一角
アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物 テーブルの一角》シカゴ美術館蔵

卓の一角だけが、描かれている

一枚の油彩に、白い布を掛けた卓がある。

96.4×125センチ。

九点のなかで、いちばん大きい。

画面の右寄りに、卓の角がある。

布は白く、厚みのある襞ができている。

その上に、器と道具が並ぶ。

ガラスの水差しが一つ。

赤い液体の入った杯が二つ。

白い杯と受け皿が一組。

銀色の入れ物と、匙。

白い皿には、丸い果実が三つ載る。

そして卓の右手前に、大きな鉢がある。

鉢には、白と桃色の花をつけた枝が挿してある。

葉は濃い緑で、厚みがある。

背景は、暗い緑と灰色である。

上のほうに、額の縁らしい線がある。

壁に絵が掛かっているのだろう。

だが、その絵は画面の外へ出ている。

館の記録の題は、静物、そして卓の一角という。

つまり、卓の全体すら描かれていない。

静物 テーブルの一角
アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物 テーブルの一角》1873年。館の記録では、油彩・カンヴァス。96.4×125センチ。番号は1951.226。シカゴ美術館蔵。アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物 テーブルの一角》シカゴ美術館蔵

この連載は、五十回にわたって場所を扱ってきた。

部屋、窓、戸口、壁、廊下、屋根、階段、柱、庭、仕事場。

家、城、寺、教会、塔、橋、道、市、港、廃墟。

山、川、海、池、森、木、野、岩、洞窟、滝。

空、雲、島、雪、雨、霧、夜、月、日の出、影。

眺め、鳥瞰、地図、遠近、遠景、泉、墓、陣、宿。

最後の一回は、その逆である。

場所の描かれていない画面を扱いたい。

静物には、場所がない

集めかたは、館の記録の題によっている。

静物、標本、図案にあたる語が入るものを拾った。

そして、風景や場所を指す語が入るものは外した。

九点のうち、静物が八点である。

残る一点は、装飾の図案だった。

まず、確かめておきたいことがある。

九点のうち、背景に場所が描かれているものは一点もない。

あるのは、暗い壁か、無地の面か、布だけである。

窓もなく、床の広がりもなく、遠景もない。

つまり、どこにあるかが分からない。

分かるのは、卓の面と、その上の物だけである。

背景は、暗い

九点の背景を数えたい。

暗い茶色か暗い緑が、五点。

淡い灰色や壁紙の模様が、二点。

白い紙の地が、一点。

黒に近い暗がりが、一点である。

つまり、七点で背景が暗い。

理由は、はっきりしている。

暗くすれば、手前の物が浮かび上がる。

そして、背景に何も描かなくて済む。

前に部屋や窓を扱った回では、奥を暗くする処理を何度も見た。

戸口の奥、洞窟の奥、廊下の突き当たり。

暗くすれば、そこは描かなくてよくなる。

静物では、その処理が画面の全体に及んでいる。

暗い一点は、写真だった。

画面は34.6×24.6センチ。

紙は48.1×31.7センチある。

画面には、細い枝が上から垂れている。

枝には、心臓の形をした花が並ぶ。

花は白く、下に小さな粒が付く。

葉は細かく分かれ、輪郭が鋭い。

背景は、まったくの黒である。

館の記述によれば、この撮影者は葉や花を接写した。

そして、暗い背景に植物を切り離して置いた。

花の並びの調子と、枝の絡み合いに注意を向けさせるためだという。

館はさらに、この写真が学者にも画家にも資料として重んじられたと書く。

花の静物(ケマンソウ)
シャルル・オーブリー《花の静物(ケマンソウ)》1865年頃。館の記録では、ガラス原板からのアルビュメン・プリント。画面34.6×24.6センチ。紙は48.1×31.7センチ。番号は1988.86。クリーヴランド美術館蔵。シャルル・オーブリー《花の静物(ケマンソウ)》クリーヴランド美術館蔵

卓の面が、唯一の場所である

八点の静物で、物が置かれている面を数えたい。

布を掛けた卓が、四点。

木の卓が、二点。

地面らしい面が、一点。

面がまったくないのが、一点である。

つまり七点で、物は水平の面に載っている。

その面が、静物における唯一の場所である。

面がないと、物は宙に浮いてしまう。

面がない一点は、水彩である。

紙は25.7×41.6センチ。

横長の画面である。

画面には、鳥が四羽いる。

三羽は小さく、赤い顔と黄色い翼を持つ。

一羽は大きく、嘴が長い。

その周りに、果実が散らばる。

桃、梨、無花果、そして黄色い実。

枝も一本、横たわる。

地は淡い黄土色で、影がわずかに落ちる。

つまり、面はあるが、その面が何かは分からない。

館の記述によれば、この画家は当時のイタリアで名を得た数少ない女性の一人である。

そして、羊皮紙に描いた自然の観察で知られたという。

館は、鳥と果実の一つずつを説明している。

三羽の小鳥と、大きな一羽。

左に二つの李、中央に桃、右に梨。

手前に、黄色い花梨と紫の無花果。

その細かさが、科学の記録に近い。

鳥と果物のある静物
ジョヴァンナ・ガルツォーニ《鳥と果物のある静物》1650年頃。館の記録では、黒鉛の上に水彩、鉛白で起こす。紙は25.7×41.6センチ。番号は1955.140。クリーヴランド美術館蔵。ジョヴァンナ・ガルツォーニ《鳥と果物のある静物》クリーヴランド美術館蔵

卓の上の、物の数

九点で、置かれた物の数を数えたい。

いちばん多いのは、最初に見た油彩である。

水差し、杯二つ、白い杯と受け皿、銀の入れ物、匙、皿、果実三つ、鉢、枝。

数えると、十を超える。

次が、十七世紀の油彩である。

額なしで43.5×56.7センチ。

画面には、青と白の鉢がある。

鉢には、赤い実が盛られている。

その手前に、赤いザリガニが横たわる。

右には、牡蠣の殻が三つか四つ。

葡萄の房が二つ、卓に載る。

背の高いガラスの杯もある。

館の記述によれば、青と白の鉢はおそらく中国から来たものである。

そして、当時その種の器の輸入が止まっていたという。

だから、卓の上の金の器と同じくらい高価だっただろう、と館は書く。

つまり、物の値段が画面から読める。

九点のなかで、値段に触れた記述はこの一点だけだった。

ザリガニと牡蠣と果物のある静物
コルネリス・デ・ヘームの追随者《ザリガニと牡蠣と果物のある静物》十七世紀末から十八世紀初め。館の記録では、油彩・カンヴァス。額なしで43.5×56.7センチ。番号は2008.290。クリーヴランド美術館蔵。コルネリス・デ・ヘーム《ザリガニと牡蠣と果物のある静物》クリーヴランド美術館蔵

花だけの三点

花を描いた三点を見たい。

一点目は、板絵である。

全体で36.5×26センチ。

縦長の小さな画面である。

画面の中央に、花束がある。

花は十数種で、色がばらばらである。

白、桃色、紫、赤、青。

葉と茎が、放射状に広がる。

下のほうに、器の縁がわずかに見える。

その下は、石の台らしい。

台の縁に、白い花が数輪こぼれている。

背景は、暗い茶色である。

館の記録に、記述の欄はない。

花の静物
アーデルハイト・ディートリヒ《花の静物》1868年。館の記録では、油彩・板。全体36.5×26センチ。番号は2025.89.3。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。アーデルハイト・ディートリヒ《花の静物》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

二点目は、油彩である。

75.8×63.5センチ。

画面の中央に、大きな花束がある。

白い花が多く、緑の葉が密に絡む。

赤い花も、点々と混じる。

絵具は厚く、輪郭がない。

下には、白い布と黄色い布が掛かる。

背景は、暗い緑と灰色である。

館の記録の題は、無題である。

括弧のなかに、花の静物、と書かれている。

制作年も記録にない。

この画家の作品は、この連載で六点目になる。

家、橋、道、山、空の回で取り上げた。

いずれも無題で、括弧に説明が付いていた。

無題(花の静物)
エドワード・ミッチェル・バニスター《無題(花の静物)》制作年不詳。館の記録では、油彩・カンヴァス。75.8×63.5センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。エドワード・ミッチェル・バニスター《無題(花の静物)》スミソニアン協会蔵

三点目は、いま見た写真である。

二枚で一組の静物

九点のうち一点は、二枚一組である。

館の記録では、二枚で一つの番号を持つ。

額なしで63×38センチ。

左の一枚には、赤い箱と、パイプがある。

パイプは壁に掛かり、火皿が下を向く。

その下に、白い筒があり、細い棒が挿してある。

マッチだろう。

台には、赤い模様の布が掛かる。

上のほうには、文字が書かれている。

右の一枚には、干した魚が吊るされている。

その下に、白いチーズと、切ったパンがある。

皿と、金属の杯もある。

こちらの上にも、文字がある。

つまり、二枚とも壁に文字がある。

館の記録は、その文面を写していない。

制作は1858年。

二枚は、対になるように作られている。

パイプとマッチのある静物/ニシンとパンとチーズのある静物(二点一組)
アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン《パイプとマッチのある静物/ニシンとパンとチーズのある静物(二点一組)》1858年。館の記録では、布に油彩。額なしで63×38センチ。番号は1980.254。クリーヴランド美術館蔵。アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン《パイプとマッチのある静物/ニシンとパンとチーズのある静物(二点一組)》クリーヴランド美術館蔵

果物と、水差し

十九世紀の油彩を見たい。

46.4×56.5センチ。

横長の画面である。

画面の中央に、青緑の水差しがある。

胴に、花の模様が描かれている。

その手前に、白い皿がある。

皿には、赤い林檎が四つか五つ載る。

左には、柄の付いた小刀がある。

右には、赤い酒の入ったガラスの杯。

卓には、白い布が掛かる。

背景は、縦縞の壁紙である。

薄い桃色と灰色の縞に、小さな花の模様が散る。

絵具は短い筆で置かれ、輪郭が柔らかい。

館の記録に、記述の欄はない。

制作は1872年。

この画家の作品は、この連載で四点目になる。

林檎と水差しのある静物
カミーユ・ピサロ《林檎と水差しのある静物》1872年。館の記録では、油彩・カンヴァス。46.4×56.5センチ。番号は1983.166。メトロポリタン美術館蔵。カミーユ・ピサロ《林檎と水差しのある静物》メトロポリタン美術館蔵

図案には、場所も物もない

最後の一点は、静物ですらない。

十六世紀の銅版画である。

館の記録に、寸法の欄はない。

縦長の画面である。

画面は、左右対称の模様で埋まっている。

中央の上に、小さな塔のような形がある。

その下に、蝙蝠が翼を広げている。

翼の左右から、渦巻きと帯が伸びる。

下のほうには、貝と、巻いた紙のような形がある。

左右には、人の姿をした柱がある。

上半身は人で、下は柱になっている。

いちばん下には、大きな貝がある。

館の記録の題によれば、これは装飾の図案である。

つまり、実際の物ではない。

金属や木に彫るための、模様の見本である。

背景は、細かい斜線で埋められる。

その斜線が、場所を示さない面を作っている。

前に工房や柱を扱った回でも、図案を見た。

図案には、場所がない。

あるのは、模様の配置だけである。

中央に蝙蝠を配した装飾図案
ハインリヒ・アルデグレーファー《中央に蝙蝠を配した装飾図案》1550年。館の記録では、エングレーヴィング。番号は1922.125。クリーヴランド美術館蔵。ハインリヒ・アルデグレーファー《中央に蝙蝠を配した装飾図案》クリーヴランド美術館蔵

静物の絵は、小さい

寸法を並べておきたい。

九点のうち、五点が六十センチに満たない。

いちばん小さいのは36.5×26センチの板絵。

いちばん大きいのは96.4×125センチの油彩である。

面積で比べると、およそ十三倍の差がある。

この連載で扱った他の主題に比べると、幅が狭い。

前に扱った掛幅では、四メートルを超えるものもあった。

版画では、二メートル七十七の町の図もあった。

静物には、そこまで大きなものがない。

理由は、置かれる場所だろう。

静物は、部屋の壁に掛けて近くから見る。

食堂や居間に掛けられることが多かった。

大きな広間に掛ける絵は、たいてい人物か歴史の場面である。

そして、静物には細部が要る。

果実の皮の質、器の光沢、布の襞。

細部を見せるには、近くで見る大きさがよい。

つまり、静物の大きさは見る距離で決まっている。

前に影を扱った回でも、同じ話をした。

細かい形を主題にすると、画面は小さくなる。

九点は、その傾向をよく示していた。

数え直す

九点を並べ直したい。

静物が、八点。

装飾の図案が、一点。

背景が暗いのは、七点。

物が水平の面に載っているのは、七点。

花が主題なのは、三点。

食べ物が主題なのは、三点である。

そして九点とも、場所が描かれていない。

物は、こちらを向いている

九点で、物の向きを見たい。

八点の静物で、物はいずれも正面から見えるように置かれている。

水差しの模様がこちらを向く。

皿の中身が上から見える。

魚の体が横向きに置かれる。

つまり、いちばんよく分かる角度が選ばれている。

これは、実際に卓に置いた状態とは違う。

食事の卓では、物は使いやすいように置かれる。

見せるためには置かれない。

静物では、見せるために並べ替えられている。

前に働く場所を扱った回でも、同じ話をした。

台所の道具を描いた画家が、配置を何度も変えたという記述があった。

つまり、静物とは並べる仕事でもある。

そして並べた結果が、画面の秩序になる。

九点のうち、いちばん整っているのは花の三点だった。

花束は、放射状に広がるように束ねられている。

いちばん乱れているのは、ザリガニと牡蠣の一点である。

殻が散らばり、実がこぼれている。

だが、その乱れも作られた乱れだろう。

館の記述は、そこまで書いていない。

場所がないと、物が大きく見える

数えた結果から、一つのことが言えそうである。

場所を消すと、物が大きく見える。

比べるものがないからである。

前に山や塔を扱った回では、目盛りの話をした。

人や木を置かなければ、大きさが分からない。

静物では、その目盛りが最初からない。

卓の面はあるが、卓の広さは分からない。

だから、林檎が拳大なのか、頭ほどあるのか決められない。

見る人は、知識で補うことになる。

林檎はこれくらい、水差しはこれくらい。

その補いが働くので、画面が成り立つ。

つまり静物は、見る人の知識に頼っている。

知らない物が並んでいれば、大きさは分からない。

九点のなかでは、装飾の図案がその状態だった。

蝙蝠と貝と柱が、同じ画面に並ぶ。

実際の大きさは、まったく違うはずである。

だが図案では、その差が消えている。

五十回で数えたこと

この連載は、五十回にわたって場所を数えてきた。

数えたのは、いつも同じことである。

画面のなかに何があるか。

それが何点あるか。

そして、記録に何が書かれているか。

分かったことを、いくつか書きとめておきたい。

館の記録の欄は、作品を物として扱う。

材、寸法、年、番号、出所。

その五つで、作品は管理されている。

描かれた対象については、題と記述にしか出てこない。

だから、山の高さも、川の幅も、部屋の広さも記録にない。

読めるのは、画面のなかの比からだけである。

そしてもう一つ、語で集めることの性質がある。

題の語で引くと、必ず外れが混じる。

別の語のなかに同じ綴りが入っていたり、漢字が共通していたり、姓の一部だったり。

五十回で、その種類はいくつも見つかった。

広い、炭素、林檎、野菜、月数、影向、騎士、悔悛、特許、方陣。

いずれも、探している語とは無関係である。

だが、削らずに並べた。

削れば、選定の基準が曖昧になるからである。

場所は、記録の外にある

最後に、この五十回を通して確かめられたことを書きたい。

場所は、記録の欄に入らない。

入るのは、作品という物の情報だけである。

描かれた場所の広さも、高さも、深さも書かれない。

書かれるのは、題に入った地名だけである。

そして地名は、あるときとないときがある。

五十回のあいだに、名のない場所を何度も見た。

名のない家、名のない道、名のない山、名のない海。

いずれも、風景として扱われる。

名のある場所だけが、歴史の側に残る。

その分かれ目は、記録に名が書かれたかどうかである。

そして今回、最後の九点には場所そのものがなかった。

卓の面と、暗い背景と、物だけである。

場所のない画面は、記録との関係がいちばん単純になる。

書くことがないので、記述も短い。

九点のうち、記述があるのは四点だけだった。

残る五点は、題と材と寸法しかない。

それでも、画面には数えられるものがある。

物の数、面の種類、背景の色、花の色。

数えれば、書くことは出てくる。

五十回のあいだ、その方法だけで書いてきた。

数えたことと、記録から引いたことを分ける。

推測は推測として書く。

分からないことは、分からないと書く。

その三つを守れば、あとは並べるだけである。

並べるのは、四百五十点の図版だった。

いずれも、当サイトで公開している作品である。

そして、いずれも五つの美術館の公開データに基づいている。

その公開がなければ、この五十回は書けなかった。

最後に、そのことを書いておきたい。

館が記録を公開し、画像を自由に使えるようにしている。

だから、当社のような立場でも作品を並べて数えられる。

数えた結果は、館の見解ではない。

当社が画像を見て数えた結果である。

その区別だけは、五十回を通してはっきりさせてきた。

そして最後の九点には、場所がなかった。

場所を主題にした連載を、場所のない画面で閉じる。

卓の一角と、暗い背景と、そこに置かれた物。

それだけで、九点の画面は成り立っていた。

場所がなくても、画面は作れる。

その事実を確かめて、この回を終えたい。

次に何を数えるかは、まだ決めていない。

決めるときは、また在庫を全件走査することになる。

未使用の作品は、まだ一万七千点以上ある。

数える材料は、まだ尽きていない。

そして今回、九点を選ぶ条件はこれまでと逆だった。

風景や場所を指す語が入るものを、外して集めた。

外した結果、静物と図案が残った。

つまり、場所のなさは条件によって作られている。

もし条件を変えれば、別の九点が集まる。

たとえば、背景に窓のある静物もあるだろう。

その一点が入れば、場所のない画面ではなくなる。

集めかたが、結論を作っている。

そのことは、五十回を通して繰り返し書いてきた。

数えた数字は、集めかたと一緒に読む必要がある。

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