池は、四点で鏡になる——コロー・池大雅・マッケほか九点

池のまわりには、木がある
九点で、木の有無を数えたい。
木が描かれているのは、七点だった。
木のない二点は、色面で描かれた油彩と、習作の一点である。
池と木は、ほとんど必ず組で現れる。
理由は二つ考えられる。
一つは、実際に水辺に木が育つことである。
水があれば、木は育ちやすい。
もう一つは、画面の都合である。
水面は平らな面で、形がない。
そこに縦の形を置かないと、画面が締まらない。
木は、その縦の形として使いやすい。
しかも、水面に映すことができる。
映せば、上下に伸びた形が一組できる。
九点のうち四点で、木が水に映っていた。
つまり木は、池の絵の骨組みである。
前に、柱や塔が画面を区切ると書いた。
木も、同じ働きをしている。
違うのは、木が水に映ることである。
石の柱は、たいてい水辺に立っていない。
木は、水辺に立つ。
だから池の絵では、木が主役に近い。
館の記録の題を見ると、そのことがよく分かる。
九点のうち、題に木の語が入るものは一点もない。
それでも、七点に木が描かれている。
数え直す
九点を並べ直したい。
水が描かれているのは、七点。
対岸が見えるのは、五点。
映り込みがあるのは、四点。
人が描かれているのは、五点。
橋が架かっているのは、二点である。
そして、水に入っている人は一人もいなかった。
実際に見たか、見ていないか
九点のうち、画家が現地を見て描いたと分かるのは何点か。
記録から確かめられるのは、三点だった。
家の近くの池を描いた油彩。
公園の池を撮った写真。
そして、公園の場面のための習作である。
一方、見ずに描いたと分かるのが一点ある。
中国の湖を描いた掛幅である。
館の記述によれば、この画家は木版の本を手本にした。
つまり、他人の絵を見て描いている。
残る五点では、どちらとも書かれていない。
見て描いたか、記憶で描いたか、想像で描いたか。
記録には手がかりがない。
この区別は、資料としての価値に関わる。
見て描いた絵は、その場所の記録になる。
想像で描いた絵は、記録にならない。
だが、絵としての良し悪しとは関係がない。
館は、その区別を書けるときだけ書いている。
書けないときは、何も書かない。
書かないことで、こちらは推測を控えられる。
推測して書けば、間違いが残る。
書かないほうが、資料としては安全である。
その方針は、公開データ全体に共通している。
池は、鏡として使われる
数えた結果から、一つのことが言えそうである。
池の絵の要は、映り込みである。
七点のうち四点で、水面が何かを映していた。
木、対岸、空。
映すことで、画面に対称が生まれる。
対称は、静けさを作る。
だから池の絵は、たいてい静かに見える。
海の絵が動いて見えるのと、対照的である。
そして、映り込みには条件がある。
水が動かないこと。
見る位置が低いこと。
光が斜めから当たること。
九点の四点は、その条件を満たしていた。
満たさない三点では、水はただの明るい面になる。
二十世紀の油彩では、青い面が一つあるだけだった。
映り込みを描かないと、水は水に見えなくなる。
そのとき、水であることを保証するのは題である。
記録は、池の深さを書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、池の広さや深さを書く欄はない。
書かれるのは、作品の寸法である。
いちばん小さいのは12.1×19.7センチの素描。
いちばん大きいのは、表装を含めて170.5×140.3センチの掛幅である。
池そのものの大きさは、対岸までの距離から推すしかない。
推せるのは、対岸が見える五点だけである。
残る四点では、それも分からない。
一方、記録が細かく書くこともある。
刷った枚数、手本にした本、公園になった年。
いずれも、画面には写っていない情報である。
館の記述は、その種の情報を補っている。
とくに、東アジアの二点では記述が長かった。
爆竹、銅鑼、対句、白い花。
画面の細部の一つずつに、意味が付されている。
その意味は、画像を見ただけでは分からない。
分かるのは、記録を読んだ後である。
だから当社の記事も、館の記述に頼っている。
頼ったところは、館の記録では、と明示している。
明示するのは、二つの理由による。
一つは、館の見解を当社の見解として書かないためである。
もう一つは、後から確かめられるようにするためだ。
館の記録は、公開されている。
読者が同じ記録を読めば、同じ記述に行き着く。
そのとき、当社が何を足したかも分かる。
足したのは、数えたことと、画面の描写である。
数えたのは、対岸、映り込み、木、人、橋。
いずれも、画像を見れば確かめられる。
確かめられないことは、書かないようにした。
たとえば、池の深さや、水の冷たさである。
それは、絵にも記録にも残っていない。
池の絵から分かるのは、表面のことだけである。
水面が静かかどうか、何を映しているか、岸に誰がいるか。
その表面の情報だけで、九点は十分に違って見えた。
墨の白い水、灰色の水、青一色の面。
同じ「閉じた水」が、これだけ違う姿で描かれている。
閉じているから、描き方の差がよく見えるのだろう。
海のように広いと、差が出にくい。
池のように小さいと、扱いの差が画面に出る。
九点を並べてよかったのは、その差が見えたことである。
一点ずつ見ていたら、どれも「池の絵」で終わっていた。
並べると、白い水と青い面のあいだにある距離が見える。
その距離が、二百年ぶんの描き方の変化でもある。
池そのものは、たぶん昔から同じように静かだった。
変わったのは、それをどう写すかのほうである。
写し方の幅を見るには、九点でも足りる。
足りないのは、なぜ変わったかを言うためのほうである。










