海だけの画面は、一点もない——ボーム・ブーダン・光悦ほか九点

湖を海と呼ぶ
九点のうち一点は、湖である。
油彩で、全体118.1×146.7センチ。
九点のなかで、いちばん大きい。
画面の中央に、水面が広がる。
水は緑がかった灰色で、静かである。
その左右に、大きな木がある。
枝は細く、葉は乱れた筆で描かれる。
水の中に、人が二人いる。
一人は膝まで水に入っている。
もう一人は、その先で身をかがめる。
岸には、人が数人いる。
いずれも指ほどの大きさである。
空は明るく、雲が渦を巻く。
館の記録の題によれば、これは聖書の場面である。
そこに出てくる水は、記録の題では海と呼ばれている。
だが実際には、内陸の湖である。
古い呼び方が、そのまま題に残っている。
この画家の別の作品は、室内を扱った回でも取り上げた。
そちらは、大きな建物の内部を描いていた。
同じ画家が、湖畔の場面も描いている。

浜辺を、金と銀で描く
日本の一点は、まったく違う扱いである。
もとは色紙で、いまは掛幅に仕立てられている。
画面のみで20×17.4センチ。
全体では132.1×43.2センチになる。
画面の上のほうに、金の雲がある。
雲は輪郭のある塊で、地の紙が透ける。
その下に、黒い横の帯が幾筋も走る。
帯は太く、墨で引かれている。
浜の砂か、波か、決めにくい。
帯のあいだに、細い線で松が描かれる。
松は小さく、数本しかない。
右上には、仮名の文字が縦に流れる。
文字は絵の上に直接書かれている。
館の記録によれば、意匠を描いた人と、文字を書いた人は別である。
二人の名が、記録に併記されている。
館の記述によれば、この色紙は十六枚が伝わっている。
そのうちの一枚である。
そして館は、書かれた歌の訳も載せている。
眺めていても、その思いは寂しい。
高い空に、月の都が夜明けの空にまだ残っている。
そういう内容だという。

海の神を、白い磁器で作る
最後の一点には、水が描かれていない。
磁器の像である。
全体で28.3×20.7センチ。
白一色で、彩色がない。
台の上に、男の像が立つ。
髭が長く、頭に飾りがある。
左腕を大きな壺に載せている。
右手は腰に当てている。
衣は厚く、襞が渦を巻く。
足もとには、貝や波らしい形がある。
台の縁も、渦の形をしている。
館の記録の題は、海の神の名である。
館の記述によれば、この神は別の海神の前に海を治めていた。
ローマの神話では、また別の名で呼ばれる。
館の記録には、工房の名と、原型を作った人の名がある。
つまり、これも二人以上の手を経ている。
海そのものではなく、海を人の形にしたものである。
抱えた壺からは、水が流れ出すことになっている。
その水は、白い磁器では見えない。

港の絵が、一点混じった
もう一点、性格の違うものがある。
小さな銅版画で、紙は11.5×16.3センチ。
版の面は10.7×15.7センチ。
画面の中央に、大きな帆船が二艘いる。
帆柱と帆桁が、画面の上端まで伸びる。
帆は畳まれ、縄が複雑に張られている。
船の周りに、小舟が数艘いる。
手前の岸には、人が十数人いる。
荷を運ぶ人、座っている人がいる。
右奥には、低い建物と塔が見える。
空は細かい線で埋められている。
館の記録の題は、地中海の港という。
つまり、これは港の絵である。
前に港を扱った回とも重なる主題である。
館の記録には、紙の裏の書き込みが六つ写されている。
数字と、作者名と、記号である。
かつての持ち主が付けた整理の跡だろう。

海辺で、人は何をしているか
人のいる七点で、その行為を数えたい。
水に入っているのが、二点。
浜に座るか立つかしているのが、三点。
舟に乗っているのが、二点。
荷を運んでいるのが、一点。
分類が重なる点もある。
注目したいのは、水に入る二点である。
前に川を扱った回では、水に入る人が一人もいなかった。
海では、二点で人が水に入っている。
しかも、そのうち一点は遊びである。
もう一点は、聖書の場面だった。
つまり、海のほうが人と水の距離が近い。
理由は、浅い部分が広いからだろう。
川は岸から急に深くなる。
海は、浜から少しずつ深くなる。
だから歩いて入れる。
その差が、絵にも出ている。
十九世紀から二十世紀にかけて、海辺での行楽が広まった。
九点のうち二点が、その時期の浜辺の絵である。
館の記述も、行楽客や水着に触れていた。
海が遊び場になったのは、そう古い話ではない。
それ以前の海は、働く場所か、渡る場所だった。
九点でも、古い五点はいずれも舟か荷の絵である。