海だけの画面は、一点もない——ボーム・ブーダン・光悦ほか九点
海の色は、青とは限らない
九点で、水の色を見たい。
青が使われているのは、三点だけだった。
灰色がかった緑が、二点。
白と黒だけのものが、二点。
金と銀と墨のものが、一点。
そして、色のない磁器が一点である。
つまり、青い海は九点のうち三点しかない。
海の色は、空の色と底の色で決まる。
曇れば灰色になり、浅ければ緑になる。
砂の上なら明るく、藻の上なら暗い。
絵はその変化を、そのまま写している。
日本の色紙では、水面が黒い帯として描かれていた。
これは、色ではなく形で水を示す方法である。
金の雲と、黒い帯と、白い紙。
三つの面の並びで、浜辺を示している。
見る人は、その約束を知っていて読む。
知らなければ、ただの模様に見えるだろう。
磁器の一点では、水が一滴も表されていない。
代わりに、抱えた壺と、足もとの渦がある。
道具と形だけで、海が示されている。
色を使わずに海を示す方法が、九点に三通りあった。
数え直す
九点を並べ直したい。
水が描かれているのは、八点。
舟があるのが、五点。
人がいるのが、七点。
波が白く描かれているのが、四点である。
そして、水平線がはっきり引かれているのは二点しかない。
残る六点では、水平線が霞むか、画面の外にある。
これは意外だった。
海の絵といえば、水平線が要ると思いがちである。
だが実際には、線を引かない画面のほうが多い。
舟の大きさが、海の広さを決める
舟のある五点で、舟の大きさを見たい。
画面の半分近くを占める舟が、二点。
画面の四分の一ほどの舟が、一点。
指ほどの小さな舟が、二点である。
舟が大きいほど、海は狭く見える。
小さいほど、海は広く見える。
これは、人の大きさと場所の関係と同じである。
前に道や広場を扱ったときにも、同じことを書いた。
海の場合、その効果はとくに強い。
海には、他に大きさを測るものがないからだ。
山なら木があり、町なら建物がある。
海には、舟しかない。
だから舟の大きさが、そのまま海の広さになる。
水彩の一点では、舟が波にほとんど埋もれていた。
三艘とも、指の先ほどしかない。
その小ささが、波の高さを示している。
同じ波でも、大きな舟の隣なら低く見えるだろう。
つまり、波の高さも舟との比で決まる。
館の記録は、舟の大きさを書かない。
書かれるのは、画面の寸法だけである。
舟の比は、画像を見て測るしかない。
水平線は、なくてもよい
なぜ水平線が少ないのか。
九点を見ると、理由が推せる。
水平線を引くと、画面が上下にはっきり割れる。
割れると、その位置で構図が決まってしまう。
上を広く取れば空の絵、下を広く取れば海の絵になる。
その決定を避けたい場合、線をぼかす。
水彩の一点では、波と空が同じ色で溶けていた。
油彩の一点では、しぶきと雲の区別がつかなかった。
いずれも、海と空の境目を消している。
境目を消すと、画面は不安定になる。
不安定さは、荒れた海の表現に向いている。
逆に、静かな海では線がはっきりする。
浜辺の板絵では、水平線が細く引かれていた。
つまり、水平線の扱いが海の状態を示している。
これは、九点から言えることである。
もっと多くの絵を並べれば、違う傾向が出るかもしれない。
記録は、海の名を書くことがある
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点のうち、海や浜の名が題に入っているのは四点だった。
海峡の名、地中海、湖の名、そして浜の名である。
残る五点では、場所に名がない。
《海景》とだけ書かれた一点もある。
海は広いので、名が付きにくい。
正確には、名は付いているが、画面から特定できない。
同じ海でも、どこから見たかで景色が変わる。
そして、海には目印がない。
山なら稜線、町なら建物で場所が分かる。
海には、そういう手がかりがない。
だから題に地名がなければ、どこの海かは分からない。
九点のうち五点が、その状態である。
分からないまま、海として並べるしかない。
館の記録も、それ以上のことは書いていない。
書かれているのは、材と寸法と番号と出所である。
海の色も、波の高さも、風の向きも書かれない。
読めるのは、画像からだけである。
そして画像から読めることも、そう多くはない。
波が白いか、舟が傾いているか、人が濡れているか。
その程度である。
それでも、九点を並べれば数えられることはある。
舟が五点、人が七点、白い波が四点。
水平線がはっきり見えるのは二点。
青い水は三点しかない。
これらは、誰が見ても同じ数になるはずである。
同じにならないとすれば、数え方が違うのだろう。
数え方を書いておけば、後から確かめられる。
今回は、水が描かれているかどうかを最初の基準にした。
その基準で、磁器の一点だけが外れた。
外れた一点も、海を主題にしていることに変わりはない。
主題としての海と、画面としての海。
その二つは、別に数える必要がある。
そして、両方を並べると見えることもある。
海を主題にした作品は、九点とも人の手が加わっている。
舟、浜の小屋、水着、磁器の像。
海そのものだけを扱った作品は、一点もなかった。
人のいない海は、絵になりにくいのかもしれない。
広すぎて、目の置きどころがないからである。
九点は、いずれもどこかに目の置きどころを作っていた。
倒れた椅子、白い波の頂、金の雲、抱えた壺。
そこから見始めれば、あとは海が続いている。
海の絵を見るときは、まずその一点を探すとよい。
画家が、どこを見せたかったかが分かる。
九点では、そこがいずれも画面の中心からずれていた。
真ん中に置くと、動きが止まってしまうからだろう。
水平線を画面の真ん中に引かないのも、同じ理由だと思われる。
上か下かに寄せると、空か海のどちらかが主になる。
真ん中に引くと、どちらも主にならない。
九点のうち、真ん中に線を引いたものは一点もなかった。
偶然かもしれない。
だが、九点そろって外れているのは面白い。
海の絵には、そういう不文律があるのだろう。
もっとも、不文律と呼べるほど確かめたわけではない。
九点で外れていた、というだけである。
その程度のことでも、数えれば言える。
数えなければ、印象で終わってしまう。
印象と、数えた結果は違う。
この連載では、その二つを分けて書いている。










