滝は、九点とも白い——ミシャロン・ヴェルネ・英泉ほか九点
有名な滝は、繰り返し描かれる
今回、同じ場所の作品が二組そろった。
これは、集めかたの結果である。
有名な場所ほど、作品の数が多い。
だから語で引くと、自然に集まる。
ローマ近くの町の滝は、十八世紀の画家がこぞって訪れた。
館の記述によれば、ドイツ語圏の画家たちが世代を継いでイタリアへ行った。
古代とルネサンスの作品を学ぶためである。
その道中で、滝も描かれた。
北アメリカの滝も同じである。
十九世紀には、絵と版画と写真で繰り返し扱われた。
今回の二点も、油彩ではなく琺瑯と写真だった。
つまり、絵以外の媒体にも広がっている。
有名な景色は、土産物にもなる。
六.七センチの琺瑯の小品は、その性格が強い。
手のひらに載る大きさで、額に入れて持ち歩ける。
写真も、同じ役割を果たした。
館の記録は、そこまでは書かない。
書かれているのは、材と寸法と番号である。
だが、六.七センチという数字がそれを示している。
大きさは、その作品の使われ方を映している。
滝の音は、描けない
滝でいちばん強い印象は、たぶん音である。
だが、絵は音を持たない。
九点で、音を示す手がかりを探したい。
泡の広がりが、五点。
飛沫の白い点が、三点。
水面の波紋が、二点である。
いずれも、音そのものではない。
音の原因になっている動きを描いている。
見る人は、そこから音を補う。
前に音楽を扱った回でも、同じ仕組みを見た。
楽器と姿勢で、鳴っていない音を示していた。
滝の場合は、泡と飛沫がその役をする。
そして、泡が多いほど音が大きく想像される。
写真の一点は、水が白く飛んでいる。
露光の時間が長いので、動く水が霧のように写る。
これは、絵にはできない写り方である。
代わりに、形はまったく失われている。
音は大きく想像されるが、水の筋は見えない。
素描の一点は、逆である。
線が細かく引かれていて、水の筋が見える。
だが、音は静かに感じられる。
同じ滝でも、材と技法で音の印象が変わる。
数え直す
九点を並べ直したい。
滝が縦に落ちているのは、六点。
横に広がっているのは、二点。
魚が登っているのは、一点である。
滝の水が白く描かれているのは、七点。
残る二点では、水は墨の線か、白抜きである。
人が描かれているのは、五点。
そのうち、滝を見ている人がいるのは三点だった。
一人は写生をしている。
滝の絵は、縦にも横にもなる
判型を並べておきたい。
縦長が四点、横長が五点である。
滝そのものが縦に落ちるのだから、縦長が多そうに思える。
だが、そうでもない。
理由は、滝の周りを描くかどうかにある。
滝だけを見せるなら、縦になる。
魚の版画は、その極端な例だった。
幅の三倍の高さがある。
谷全体を見せるなら、横になる。
ティヴォリの油彩は、幅が高さの一.四倍ある。
そこには滝が四本か五本あり、谷が広い。
ライン滝の素描も横長だった。
こちらは、滝そのものが横に広いためである。
つまり判型は、滝の形と、描く範囲の両方で決まる。
高い滝を近くから描けば縦、広い滝や谷を描けば横。
九点は、そのどちらかに分かれていた。
例外は、掛幅の一点である。
こちらは縦だが、滝は細く目立たない。
形式として縦長が決まっているからである。
掛幅は壁に掛けるものなので、必ず縦になる。
作品の形が先にあり、主題が後から入る。
滝は、必ず白い
数えた結果から、はっきり言えることがある。
滝の水は、白く描かれる。
九点のうち七点で、そうなっていた。
残る二点は、墨と木版だが、そこも紙の白を残している。
つまり、九点すべてで滝は明るい。
背景の岩が暗いので、その差が強く出る。
これは、実際の見え方どおりでもある。
落ちる水は泡になり、光を散らして白くなる。
そして、その白さは形を持たない。
輪郭がなく、下へ行くほどほぐれる。
だから、描くときには周りを暗くするしかない。
白は塗れないので、残すか、周りを暗くする。
油彩なら白の絵具が使えるが、それでも周りは暗い。
九点のうち八点で、滝の周りに暗い岩があった。
例外は、魚の版画である。
そこでは、水そのものが画面を占めている。
暗い岩がないので、水は青と緑の帯になる。
白くする必要がない。
記録は、滝の高さを書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、滝の高さを書く欄はない。
そして、記述の欄にも高さは出てこない。
前に山を扱ったときは、一点だけ高さが書かれていた。
滝では、一点もない。
滝の高さは、画面から推すしかない。
推せるのは、人や建物が描かれた五点だけである。
丸太小屋のある一点では、滝は小屋の二倍ほどに見える。
十メートルほどだろうか。
ティヴォリの油彩では、谷の深さが人の数十倍ある。
北アメリカの二点では、比べるものがない。
写真の滝は遠く、岸の木しか目印がない。
琺瑯の小品には、人影が二つあるだけである。
その人影から測ると、滝は人の二十倍ほどに見える。
もっとも、六.七センチの画面での目分量である。
信用できる数字ではない。
館は、そういう数字を書かない。
書けば、間違いが残るからだろう。
書かれるのは、作品の寸法だけである。
6.7センチから172.6センチまで、九点の幅は二十五倍あった。
面積で比べると、六百倍以上になる。
同じ滝を描いても、これだけの差が出る。
小さいほうは持ち歩くため、大きいほうは壁に掛けるためだろう。
用途が違えば、大きさも変わる。
そして、大きさが変われば描き方も変わる。
六.七センチの画面では、水の筋を細かく描けない。
百七十センチの画面なら、岩の一つずつまで描ける。
九点を並べると、その差がよく見える。
滝という主題は同じでも、作品としては別のものである。
同じ語で集められたことが、かえってその差を見せてくれた。










