美術史・技法

カーテンを引きたくなる絵——ファン・デル・スペルトとハーネットのだまし絵

絵が、日用品だった国

十七世紀のオランダについて、市場の話を挟んでおきたい。静物画がこれほど作られた背景がある。

この国では、宗教改革のあと教会が絵を注文しなくなった。王侯の宮廷も、他国ほど大きくない。

かわりに買い手になったのが、都市の市民である。商人、職人、農場主。彼らが自宅の壁に掛けるために絵を買った。

需要の形が変われば、供給も変わる。大きな祭壇画ではなく、手ごろな寸法の風景画、風俗画、静物画が量産される。

当時の家財目録を見ると、ごく普通の家庭に何十点もの絵があったことが分かる。絵は贅沢品というより、日用品に近かった。

画家の側も専門化した。花だけを描く者、魚だけを描く者、教会の内部だけを描く者。得意な一種類で回していく。

先ほどの合作も、この専門化があってこそ成立している。分業が普通の世界だから、二人で一枚を作る発想が出てくる。

そして日用品であるということは、価格競争があるということでもある。速く、確実に、見栄えのする絵を作る技術が磨かれた。

だまし絵の腕も、その延長にある。うまいことが、そのまま商品価値になる市場だった。

静かではない静物

だまし絵から少し離れて、静物画そのものの性格を見ておきたい。この分野は、想像より騒がしい。

ヴァニタスの静物
1662年の《ヴァニタスの静物》。地球儀、開かれた書物、ヴァイオリンとリュート、宝飾品、楽譜、版画。右端に頭蓋骨が置かれている。エドワールト・コリール《ヴァニタスの静物》メトロポリタン美術館蔵

机の上に、およそ二十の品が積み上げられている。学問(地球儀と書物)、音楽(弦楽器と楽譜)、富(宝石と珊瑚)、名声(人物の版画)。

そして右の端に、頭蓋骨がある。

この配置には決まった読み方がある。すべては過ぎ去る、という警句である。学問も音楽も富も名声も、死の前では等しい。

ヴァニタスと呼ばれるこの型は、十七世紀オランダで大量に描かれた。裕福な市民が、贅沢な品を描いた絵を買い、そこに「贅沢は空しい」と書き添えさせる。

矛盾しているようだが、そういうものだろう。持っていない人には、空しさを飾る余裕もない。

注目したいのは、これらの品が「読まれる」ことを前提にしている点である。見る人は、意味を数えながら画面をたどる。

だまし絵が一瞬でだますのに対し、ヴァニタスは長く読ませる。同じ静物画でも、見る速度がまったく違う。

器のなかの世界地図

もう一枚、別の型を見ておきたい。豪華静物と呼ばれる系統である。

果物、ガラス器、万暦の鉢のある静物
1659年の一枚。暗がりのなかに、青と白の磁器の鉢、背の高いガラス杯、螺旋に剥かれたレモン、そして東方の絨毯。ウィレム・カルフ《果物、ガラス器、万暦の鉢のある静物》メトロポリタン美術館蔵

この鉢は中国の磁器である。所蔵館の題名には「万暦」の名が入っている。明の万暦年間に作られた輸出用の器を指す。

十七世紀のオランダは、東インド会社を通じて大量の中国磁器を輸入していた。船で運ばれ、市民の食卓に並び、絵に描かれた。

左端の織物はペルシア風の絨毯。テーブルクロスとして使われている。

つまりこの小さな画面には、中国とペルシアとヨーロッパが同居している。静物画は、交易の記録でもあった。

レモンの皮が螺旋に垂れているのは、この系統の絵に繰り返し出てくる型である。輸入品の柑橘は高価で、皮を剥いた姿は贅沢の記号になる。

そして、剥かれた皮は乾いていく。ここにもヴァニタスの気配がある。

暗い背景も効いている。物が闇から浮かび上がり、明るいところだけが選ばれている。舞台照明のような配置である。

何も語らない静物

もうひとつだけ、まったく違う型を見ておきたい。十八世紀フランスのシャルダンである。

白いマグのある静物
《白いマグのある静物》1764年ごろ。洋梨がひとつ、林檎が四つ、白い陶器のマグ、そして手前に置かれたナイフ。それだけである。ジャン・シメオン・シャルダン《白いマグのある静物》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

だまし絵の技巧はない。ヴァニタスの符牒もない。中国の磁器もペルシアの絨毯もない。

台所の棚から取ってきたような品が、五つか六つ並んでいるだけである。

しかし、置き方が異様に慎重だ。果物は少しずつ重なり、マグは右端で画面を締め、ナイフが手前へ斜めに出る。

このナイフの一本が効いている。すべてが画面と平行に並ぶところへ、斜めの線が一本入って空間が生まれる。

色も抑えられている。背景は緑がかった灰色、果物は褐色と橙、マグは白。派手な対比がない。

そのぶん、表面の描き方が見どころになる。マグの釉薬の鈍い光、洋梨の皮のざらつき、林檎の斑点。

意味を読ませず、錯覚もさせず、ただ「置かれている」ことを見せる。静物画のもう一つの極である。

のちの画家たちが繰り返し参照したのは、この系統だった。セザンヌも、モランディも、ここから出発している。