カーテンを引きたくなる絵——ファン・デル・スペルトとハーネットのだまし絵
新大陸の台所
十七世紀オランダの型は、二百年後のアメリカにも渡っている。ハーネットのだまし絵は、その系譜の一端である。
もう一つの系譜が、台所の静物である。野菜と果物を、飾らずに並べる。
当サイトには、十九世紀前半のアメリカで描かれた一枚がある。瓜と野菜を卓上に置いただけの画面である。
描いたのはジェームズ・ピール。アメリカ最初期の画家一族の一人で、この家系からは肖像画家も博物画家も出ている。
一家で工房のように仕事をし、同じ主題を分担して描いた。宮廷画家の家業について別のコラムで書いたが、構造はよく似ている。
彼らの静物には、ヴァニタスの符牒も、だまし絵の仕掛けもない。あるのは、育てた作物を丁寧に並べる態度である。
新しい国の、まだ短い歴史。象徴の体系を持たないぶん、物がそのまま物として描かれている。
同じ「静物画」という枠の中に、これだけ違う目的の絵が入る。分類の名前は、しばしば中身を語らない。
静物画は、見る速度を操作する
三つの型を並べてみた。だまし絵、ヴァニタス、豪華静物。
こうして見ると、静物画は「何を描くか」より「どう見せるか」で分かれていることが分かる。
だまし絵は、一瞬で錯覚させ、次の瞬間に気づかせる。効果は二段階で、しかも短い。
ヴァニタスは、意味を一つずつ数えさせる。時間がかかるほどよく、見るほど深くなる。
豪華静物は、素材の質感を味わわせる。ガラス、磁器、果肉、金属。目が表面を舐めるように動く。
いずれも、見る側の時間の使い方を設計している。動かないものを描いているのに、扱っているのは時間である。
そう考えると、静物画が長く「格下」とされてきたことのほうが不思議に思えてくる。物語がないだけで、仕掛けは複雑である。
序列の話は別のコラムで書いた。歴史画が上、静物画が下という並びは、十七世紀に成文化されている。
だが実際の市場では、静物画はよく売れた。壁に掛けて心地よく、値段も手ごろで、意味も読める。
格付けと売れ行きが一致しないのは、いつの時代も同じらしい。
画面の中では、だませない
最後に、いまの条件について書いておきたい。だまし絵は、画面の上では成立しない。
理由は、先に並べた条件のほとんどが失われるからである。
実物大でなくなる。46センチの板絵が、手のひらほどに縮む。あるいは壁ほどに拡大される。
平らな面に化ける、という前提も崩れる。画面の中の四角は、はじめから「画像である」と分かっている。
光の方向も合わない。部屋の窓がどこにあろうと、画像の中の影は変わらない。
だから私たちは、あのカーテンに手を伸ばしかけることがない。だまされる体験だけは、実物の前でしか手に入らない。
そのかわり、拡大はできる。カーテンの折り目にどれだけの絵具が置かれているか、金具の影がどんな色で描かれているかは、実物より近くで見られる。
だまされる楽しみを失って、種明かしを得たわけである。悪くない交換だと思う。
いつか実物の前に立つ機会があれば、まず何歩か下がってほしい。そして絵の高さに目線を合わせる。
そこが、この絵が本来の仕事をする位置である。








