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水鳥は、水の上にいない——蒋廷錫・狩野山楽・馬麟ほか九点

鵞鳥は、逆さに吊るされる

八点目で、水鳥は獲物になる。

田舎屋敷を背にした鵞鳥と獲物のある静物
ヤン・ウェーニクス《田舎屋敷を背にした鵞鳥と獲物のある静物》1685年ごろ。館の記録では、油彩・カンヴァス。画面は142.9×172.4センチ。番号は2004.39.1。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。ヤン・ウェーニクス《田舎屋敷を背にした鵞鳥と獲物のある静物》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

大きな横長の画面である。

142.9×172.4センチある。

左に石の柱と壁があり、右奥に庭園と池が広がる。

空は夕方の色をしている。

画面の中央、石の台の上に、白い鵞鳥が横たわっている。

翼が大きく開き、白い羽が画面のいちばん明るい面になっている。

首は台から垂れ下がり、頭が下を向いている。

くちばしは開いていない。

その下に、茶色の兎が横たわる。

耳は伸び、脚は投げ出されている。

手前には、小鳥が数羽ころがっている。

右には、木の枝と草の束がある。

空には、鳩のような鳥が二羽飛んでいる。

生きている鳥と死んでいる鳥が、同じ画面にいる。

館の記録は、この絵について題と材料しか書いていない。

書かれていないことは、こちらも書かない。

見えることだけを言えば、この鵞鳥は狩りの成果として並べられている。

白い羽は、汚れも傷もなく描かれている。

血も、破れた皮膚も描かれていない。

死んでいることを示すのは、首の垂れ方と、開いたままの翼だけである。

この画面でいちばん明るいのは、その白い羽である。

背後の庭園も、空も、羽より暗く塗られている。

つまり画面の光は、死んだ鳥の上に集められている。

石の台は、獲物を並べるための台である。

その台の高さは、見る人の目の高さとほぼ同じに置かれている。

こちらが立って見れば、鵞鳥の首が目の前に垂れることになる。

池の白鳥は、庭の飾りになる

最後の一点で、水鳥は背景に退く。

ユーヴデール・トムキンズ・プライスとその家族
バーソロミュー・ダンドリッジ《ユーヴデール・トムキンズ・プライスとその家族》1730年代初めか。館の記録では、油彩・カンヴァス。画面は102.2×158.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。番号は20.40。バーソロミュー・ダンドリッジ《ユーヴデール・トムキンズ・プライスとその家族》メトロポリタン美術館蔵

横長の家族の肖像である。

画面の中央から右へ、大人が何人も立っている。

男は膝丈の上着に、白い靴下。

女は広がった裾の服を着て、扇を持つ。

左には子どもが四人いる。

赤い服の子が、犬に手を伸ばしている。

その足もとに、白い犬が座っている。

そして画面の下、手前に水がある。

石で縁取られた池である。

その水面に、白鳥が二羽浮かんでいる。

一羽は首を下げ、水に頭を入れかけている。

もう一羽は首を立てている。

二羽とも、家族の誰も見ていない。

館の札には「男性」「女性」「白鳥」「犬」「家族」が並ぶ。

白鳥は、札の三番目に登録されている。

画面の中では、人の足もとの装飾である。

しかし館の記録は、白鳥を人と同じ列に並べて記録している。

札という仕組みは、画面の中の面積を問わない。

大きく描かれた人も、隅の小さな鳥も、同じ一語として並ぶ。

この画面では、人が十人ほど、犬が一匹、白鳥が二羽いる。

札の上では、それが五つの語に圧縮されている。

面積で言えば、白鳥は画面の百分の一にも満たない。

にもかかわらず、検索の上では人と同じ重さを持つ。

館の記録の書き方が、そのまま鳥の扱いを決めている。

数えてみると

九点を並べ直す。

水鳥が水の上か水際にいるのは、三点である。

葦原の雁、月世界の水面のガチョウ、そして庭の池の白鳥。

飛んでいるのは二点である。

遠い山を越える雁の列と、花瓶の腹に描かれた鴨。

器そのものの形になっているのは三点である。

鷺の形の油壺、皿に沈んだ白鳥、そして花瓶の胴。

死んで台に載っているのは一点である。

そして最初の一幅では、白鷺は水のない絹の上に立っていた。

もう一つ数えておく。

九点のうち、水鳥が泳いでいる場面は二点しかない。

月世界の水面と、庭の池である。

水鳥という呼び名を持ちながら、泳ぐ姿はほとんど描かれていない。

立つ姿、飛ぶ姿、横たわる姿のほうがずっと多い。

言えることと、言えないこと

言えるのは、水鳥が「輪郭のよい鳥」として選ばれていることである。

首が長く、体が丸く、脚が細い。

その形は、壺にも、皿の浮き彫りにも、花瓶の装飾にも移しやすい。

九点のうち三点で、水鳥は器の輪郭そのものになっていた。

言えないのは、これが水鳥だけの特徴だという話である。

鶏も磁器の蓋物になっていたし、鷲も槍の金具になっていた。

生きものの形は、どれも器に移される。

分かれたのは、移されたあとに何が残るかである。

鷺の形の壺には、首の曲がりだけが残った。

皿の白鳥には、交差する二つの首だけが残った。

花瓶の鴨には、開いた翼だけが残った。

いずれも、いちばん動きのある部分が選ばれている。

最後に、はじめの一幅へ戻る。

白鷺は水のない場所で、首を縮め、脚を一本隠して立っていた。

動きのない姿勢である。

器に移しにくい形が、絹の上には残っている。

器に移されなかった姿勢が、絵のほうに取り残されている。

そう考えると、花鳥画という呼び名も少し違って見えてくる。

花と鳥を並べるのは、動くものと動かないものを一枚に置くことでもある。

芙蓉は咲いたまま動かず、白鷺もまた動かない。

そこには、渡りも、飛翔も、狩りも描かれていない。

九点を数え終えて残るのは、その動かない一羽のほうである。

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