作者の名が「散逸した写本の画家」である——インドの細密画九点
枠と、文字の帯
九点の多くには、画面のまわりに枠がある。
赤い枠。黄と赤の二重の枠。黒い縁。青い枠。
そして、枠の外に文字の帯が付くことがある。
上に付くものもあれば、画面の内側に細い帯として置かれるものもある。
この帯には、本文の一節や、場面の説明が書かれる。
写本の頁だから、当然である。
絵だけの頁ではない。
読むための文字と、見るための絵が、同じ紙にある。
ばらばらになると、この関係が見えにくくなる。
一葉だけを額に入れると、文字の帯は装飾のように見える。
しかし、もとは本文である。
前の頁から続き、次の頁へ続いていた。
館の寸法の欄で、画面と紙を書き分けているのは、この事情による。
画面は絵の部分、紙は文字の帯まで含めた全体である。
二つの数字の差が、文字の場所の広さになる。
マノーハルの一葉では、その差が二・八センチあった。
そこに、三行の文字が入っていた。
散らばった写本を、どう数えるか
九点のうち、一冊のまま残っているのは一点だけである。
カルパ・スートラの七十一葉。
残り八点は、いずれも一葉である。
そして五点の題には「散逸した」と書かれている。
散逸した写本を数えるとき、単位は葉になるほかない。
一冊としては、もう存在しないからである。
しかし、題に本の名を残しておけば、別の場所にある葉と結び付けられる。
同じ写本の葉を、記録の上で集めることができる。
だから、館は本の名を題から外さない。
外すと、《木陰のクリシュナとラーダー》という題だけが残る。
それでは、どの写本の葉か分からなくなる。
名前が、失われたものを指している
はじめの作者名に戻りたい。
「散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家」。
この名は、二つのことを同時に言っている。
一つは、この画家の名が分からないということ。
もう一つは、その代表作がもう一冊としては存在しないということ。
失われたものを二重に含んだ名前である。
それでも、この名は役に立つ。
同じ手による葉が別の場所で見つかったとき、同じ名で呼べる。
名がなければ、結び付けようがない。
呼び名は、散らばったものをつなぐための糸である。
前の回に見た「周亮工のための画帖の一葉」も、同じ働きをしていた。
集めた人の名で、離れた葉をつなぐ。
こちらは、失われた本の名で、離れた葉をつなぐ。
方法は違うが、目的は同じである。
産地の欄が、細かく書かれている
九点の文化の欄を並べると、地名がかなり細かい。
インド、ラージャスターン、メーワール。
インド、パンジャーブ丘陵、グレール。
インド、パンジャーブ丘陵、カーングラー王国。
インド、ラージャスターン、ビーカーネール。
インド、デリーとアーグラの地域。
インド、グジャラート。
国、地方、そして工房のあった土地まで書かれている。
なぜ、ここまで細かく書くのか。
インドの細密画では、土地ごとに様式が違うからである。
同じ物語を描いても、色の使い方も、人物の形も違う。
だから、土地の名は様式の名でもある。
一点だけ、地名が「インド」とだけ書かれているものがある。
リカージーの一葉である。
この一葉だけ、産地が絞り込めていない。
同じ欄でも、確からしさに段差がある。
書ける範囲まで書いて、それ以上は書かない。
九点の欄を並べると、その方針が見えてくる。
一つの写本を、何人で描くか
バーガヴァタ・プラーナの二葉は、作者の欄が違っていた。
一方は名があり、他方は呼び名である。
これは、写本の作り方を示している。
大部の写本には、絵が何百枚も要る。
一人では終わらない。
だから、複数の絵師が分担する。
分担したうち、名を書き残した人と、書かなかった人がいる。
あるいは、書いた署名が失われた葉もあるだろう。
そして、写本がばらばらになったあとで、研究する人が手を見分ける。
同じ手の葉を集め、一人の画家として扱う。
名がなければ、呼び名を与える。
「散逸したバーガヴァタ・プラーナの画家」という名は、その手続きの結果である。
一人の人間の名ではなく、一つの手を指す記号である。
ここには、大事な違いがある。
サー・ナーナーは、署名から分かった名前だろう。
もう一方は、研究の結果として作られた名前である。
同じ作者の欄に、性質の違う二つが並んでいる。
館は、そのことを説明していない。
しかし、名前の形を見れば分かる。
人名らしい名と、そうでない名。
一葉が、絵として自立するまで
最後に、この形式の見え方について書いておきたい。
写本の一葉は、もともと本の頁である。
前の頁があり、次の頁がある。
物語の途中にあり、単独では読めない。
ところが、ばらばらになった一葉は、単独で見られることになる。
額に入れて壁に掛けることもできる。
そのとき、絵は物語から切り離される。
《木陰のクリシュナとラーダー》は、詩の一節の挿絵である。
しかし一葉だけを見れば、夜の庭の絵である。
月があり、星があり、花が咲いている。
物語を知らなくても、見ることはできる。
これは、散逸がもたらした変化である。
本の一部だったものが、一枚の絵になった。
館の題は、その両方を書いている。
場面の内容と、もとの本の名。
一葉の絵としての読み方と、写本の頁としての位置。
二つを並べて書くことで、どちらも消さずに済んでいる。










