習作という語が指す五つのもの——マウルベルチュ・ジロデ・ベローズほか九点

館の記録は、紙の仕上げまで書いている。
小口を金で仕上げた網目紙、とある。
小口というのは、紙の断面のことだ。
そこに金箔を押すと、閉じたとき縁が光る。
高価な帳面である。
外で使う道具としては、贅沢な部類に入る。
これは、冊子そのものである。
館の画像には、開かれた帳面が写る。
厚みは1.1センチ。
表紙は革で、縁が黒い。
紙の小口は、金で仕上げられている。
開いたページに、薄い線がある。
舟の内側が描かれている。
板を渡した座席と、縁の線が見える。
右側にも、何か描かれている。
線は非常に薄く、判読しにくい。
九点のうち、これだけが立体である。
寸法に厚みが書かれているのは、そのためだ。
館の記録は、番号に枝番と「裏」を付けている。
一冊の帳面の、何ページ目かの裏、という指定である。
第十七回で、一冊が何点に数えられるかを扱った。
ここでは、一冊が一点として数えられている。
そして、ページごとに枝番が付く。
数え方が二重になっている。
「習作」と題された、完成した絵

横長の版画である。
白い紙に、灰色の面で人物が作られる。
うつ伏せに横たわっている。
頭は左にあり、こちらへ向く。
顔は伏せられ、髪が短い。
両腕は前へ伸び、肘が曲がる。
背中の線が、左から右へ長く続く。
腰のあたりで、いちばん高くなる。
脚は右へ伸び、途中で消える。
体の下に、薄い影がある。
背景は白いままである。
画面の下に、鉛筆の書き込みが二つある。
左には題らしいもの、右には署名らしいものがある。
題に「習作」とある。
だが、これは版画である。
刷って、署名して、売るために作られている。
つまり、何かの準備ではない。
「習作」という語が、作品の名前になっている。
体を写した絵を、そう呼ぶ習慣があるからだ。
第十四回で、同じような一点を見た。
横たわる話で扱った油彩は、本当に未完成だった。
こちらは、完成品である。
同じ語が、逆の意味で使われている。

赤一色の背景である。
その前に、人物が後ろ向きに座る。
見えるのは、背中と、後頭部だけである。
髪は栗色で、頭の上でまとめられている。
首筋が白い。
耳が片方だけ見える。
衣も赤で、背景と同じ色調である。
背中に、細い線が一本走る。
留め具か、縫い目らしい。
顔は見えない。
これも題に「習作」とある。
そして、名前が付いている。
誰かを描いた絵だと分かる。
だが、その人の顔は描かれていない。
第三回で、後ろから見た胸像を見た。
切る位置の話で扱った素描も、顔がなかった。
背中だけでも、肖像として成立する。
館の記録は、この一点が何の準備かを書いていない。
つまり、これも独立した作品として扱われている。
習作が残るのは、偶然である
もう一つ、九点に共通することがある。
どれも、残る必要のないものだった。
下絵は、本番ができれば役目を終える。
部分を試した紙は、描き終われば捨てられる。
外で描いた小品も、記録として置かれるだけだ。
それでも、九点は残った。
理由は、いくつか考えられる。
一つは、作った人の手元に残ったことである。
工房や画室に、紙や板が溜まる。
そして、その人が亡くなったあと、まとめて処分される。
そのとき、価値が付くことがある。
有名な人の下絵なら、なおさらである。
もう一つは、集めた人がいたことである。
素描や下絵を専門に集める人は、昔からいる。
第十八回で、一人の関心が一分野を作る例を扱った。
九点の出所の行を見ると、個人の名が多い。
寄贈が四点、基金による購入が四点、匿名の寄贈が一点。
つまり、半分近くは誰かが持っていたものである。
そして、その誰かは、下絵を選んで買っていた。
完成作ではなく、準備の段階のものを。
その好みがなければ、九点は残らなかった。
館の記録は、そこまでは書かない。
書かれるのは、いつ誰から入ったかである。
なぜその人が買ったかは、記録の外にある。
場所を、記録するための習作

横長の小さな油彩である。
縦20.3センチ、横35.2センチ。
画面の中央よりやや上に、水平線が通る。
空は、黄色みを帯びた白である。
その中に、丸い光がある。
日が低い位置にある。
海は灰色で、光の下だけ明るい。
右に、帆を張った舟が二艘ある。
帆は褐色と白。
左手前に、小さな舟が一艘。
そこに、人が二人乗っている。
水面に、舟の影が映る。
支持体は厚紙である。
九点のうち、厚紙はこの一点だけだ。
厚紙は安く、持ち運びやすい。
外で描くための下地である。
制作年に、四十年の幅がある。
1860年から1900年、と記録は書く。
この作者の活動期間そのものだろう。
つまり、いつ描かれたか分かっていない。