ベルト・モリゾの代表作と特徴——なぜ筆のあとを消さずに残したのか
ベルト・モリゾの代表作と特徴を、当サイトで公開中の五点で追う。第一回印象派展に出品した画家で、身近な人と部屋を描き続けた。筆のあとを消さずに残した画面が、初期から晩年までどう変わったのかを、館の記録と図版で確かめる。

ベルト・モリゾは、1874年の第一回印象派展に出品した画家のひとりである。館の記録では1841年に生まれ、1895年に没している。描いたのは、身近な人と、身近な部屋と、その窓の外だった。筆のあとを消さずに残した画面は、いまも彼女の絵を見分けるいちばんの手がかりになる。
ベルト・モリゾの代表作
当サイトで画像を扱える範囲で、初期から晩年までの油彩六点と版画一点をたどる。まず初期の一点から。

縦長の画面に、二人の女性が座っている。左は白い服の若い女性、右は黒い服の年長の女性で、緑の表紙の本を開いている。白と黒がまっすぐ向き合う。背後には金の額縁の鏡、ソファには花模様、左手前の丸テーブルには紫のライラックが置かれている。
身内を描いた絵である。題がそう告げている。構図は整っているが、顔の描き方と服の描き方では筆の速さが違う。黒い服はほとんど一気に置かれ、襟の白だけが細く残されている。
二人の視線も合っていない。右の女性は本へ目を落とし、左の女性は本から離れて前のほうへ目を向けている。同じソファに座りながら、見ている先が別である。人物を並べて関係を語る絵ではなく、同じ部屋にいる二人を同じ光の下で見た絵と読める。
描かれたのは1869年から70年にかけての冬である。姉エドマは初めての子を待って、実家に身を寄せていた。館の解説は、ゆったりした白い部屋着が身重の体を目立たなくしていると読む。
この絵には、手を入れたのが画家ひとりではないという事情もある。1870年のサロンの締め切り前、モリゾはエドゥアール・マネに助言を求めた。マネは助言にとどまらず、母の姿を大きく描き直してしまった。その経緯はモリゾの手紙に残っている。それでも絵はそのままサロンに出された。右の黒い服の女性が母で、マネが筆を入れたのはこちらの側である。左の白い服の姉と見比べると、筆の運びの違いを探す手がかりになる。

同じ年の戸外の絵。横長の画面のほとんどを水面が占める。右手前の石の護岸に、白い服の女性が日傘を差して腰かけている。奥には帆船のマストと白い家並み。人物は画面の端に寄せられ、主役の位置にいない。
空と水はほとんど同じ色で塗られ、境目は遠くの岸でようやく分かれる。水面に映る家や帆柱は、縦に引いた柔らかい筆で置かれ、実物の形をなぞっていない。港を記録する絵ではない。水の明るさを置くために、港の形が借りられている。館の来歴によれば、モリゾはこの絵を描いた年のうちにマネへ贈っている。
当サイトでは画像を扱えないが、代表作としてまず名の挙がる一点がある。1872年の《ゆりかご》で、パリのオルセー美術館が所蔵する。姉エドマが、眠る娘ブランシュを薄い紗ごしに見守る絵である。モリゾは1874年の第一回展にこれを出したが、買い手はつかなかった。館の記録では、絵はその後エドマの一家に伝わり、1930年に国が買い上げた。母と子という主題は、ここから晩年まで繰り返される。
なぜ筆のあとを残したのか
モリゾの画面では、絵具が面として塗り込められていない。筆の一撫でが、そのまま形の一部として見えている。《ロリアンの港》の水面を見ると、横に引いた短い筆が何本も並び、その隙間から下地の色が覗く。

その傾向がもっとも強いのがこの一点である。背を向けた女性が化粧台の前に座る。館の解説では、舞踏会から戻り、結い上げた髪をほどこうとしている場面である。耳飾りと首の黒いリボンが、まだそのまま残っている。白、灰、淡い青の筆が画面全体を覆い、人物と壁の境目がほどけている。肩のあたりだけが輪郭を保ち、そこから外へ向かって形がゆるむ。
これを未完成と見るか、ここで止めたと見るかは、見る人によって分かれる。はっきり言えるのは、同じ画面のなかで筆の密度が描き分けられていることだ。肩と背中は丁寧に、周囲は粗く。偶然そうなったのではなく、どこを見せるかを選んだ結果と読める。
鏡の扱いも同じ考え方で見られる。左手前に縦長の姿見が立つが、映っているのは花と白い布らしい形だけで、女性の顔は見えない。館の解説は、鏡に見入る女性を虚栄の象徴として描く古い型を、この扱いが崩していると読む。署名は、その姿見の下の縁に入っている。
この絵は1880年の第五回展に出品された。館の来歴では、のちに画家ウィリアム・メリット・チェイスが持ち、1896年にはメアリー・カサットの手にあった。同じ女性の印象派画家どうしのつながりは、メアリー・カサットの代表作でも触れている。

戸外では、この傾向がさらに進む。青い服の女性が緑のベンチに座り、黄色い手袋の手に青い扇を持つ。背後は格子垣と茂みで、右には麦わら帽子の子どもが花のあいだに見える。館の解説によれば、一家がセーヌ川沿いのブージヴァルで夏を過ごした1882年に描き始めた絵らしい。子どもは娘ジュリーがもとと見られるが、主役の女性が誰かは分かっていない。
館の解説が指摘するとおり、人物にも庭にも同じ筆が使われている。服の青は斜めに切るような筆で置かれ、隣の茂みの緑と同じ速さで走る。人物だけを丁寧に仕上げる、という順番がここにはない。
見るときは、まず画面の四辺に目をやるとよい。中心から離れるほど筆は粗くなり、隅では地の色がそのまま出ていることが多い。次に顔と手を見る。そこだけ筆が細かく、色の数も多い。この差が、モリゾの画面の読み方の手がかりになる。筆のあとを残す描き方は印象派の画家に広く見られるもので、その背景は印象派とは何かにまとめた。
何を描いたのか
主題の範囲は、意外なほど一定している。室内にいる女性、庭、港、子ども。歴史画も神話も戦争も出てこない。当時の画壇で格が高いとされた主題を、ほとんど扱っていない。
この偏りを、題材の乏しさと見る必要はない。同じ範囲を長く描き続けたぶん、光と筆の扱いだけが年ごとに動いていく。比べる軸が主題ではなく描き方の側に寄るので、変化がかえって見えやすい。
画家の暮らしと出品の歩み
主題の範囲は、暮らしの範囲とも重なる。モリゾは姉エドマと一緒に絵を学び、コローの周辺にいた画家オディノに付いて戸外でも描いた。1864年にはサロンに入選している。エドマは1869年に筆を置き、以後はベルトひとりが描き続けた。
1874年の十二月、モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚した。1878年に娘ジュリーが生まれ、翌年の第四回展には出品していない。印象派展は1886年までに八回開かれ、モリゾが出たのはそのうち七回である。娘の誕生の年を除けば、毎回出品したことになる。
1892年に夫ウジェーヌが亡くなり、モリゾは娘とパリの小さな住まいへ移った。三年後に画家も世を去る。残されたジュリーの後見を引き受けたのは、詩人のマラルメだった。翌1896年には画廊デュラン=リュエルで回顧展が開かれている。

淡い桃色の服の若い女性が、白っぽい長椅子に正面を向いて腰かける。片腕は花模様の座布団に載る。背後の卓には鉢植えの花。背景は暗く、服の色だけが明るく浮く。モデルの名は館の記録に残っている。アルベルティ=マルグリット・カレという、1854年生まれの女性である。

晩年に近い一点。題にあるとおり、描かれているのは画家の娘ジュリーで、このとき十一か十二歳である。左背後に鳥籠があり、緑の鸚哥がとまっている。服は長い筆で縦や斜めに引かれ、桃色の上に白と朱が走る。地のカンヴァスの色が、ところどころ塗り残されて見えている。
二十年の隔たりを置いて《画家の母と姉》と並べると、変わった点がはっきりする。輪郭は弱くなり、色は明るくなった。黒はほとんど使われなくなっている。いっぽうで、題材が身内であることは変わっていない。
画面の作りにも違いがある。初期の一点では家具と壁が人物を囲み、部屋の奥行きが測れた。晩年の一点では背景が色の層になり、どこまでが壁でどこからが空気なのか決めにくい。人物だけが、はっきりした重さを持って残る。
油彩のほかに使った素材
油彩だけを見ていると、モリゾの仕事の半分を見落とす。水彩、パステル、版画にも長く取り組んでいるからだ。

晩年には版画も試みている。館の解説によれば、カサットとマラルメに勧められ、1887年から89年にかけて取り組んだ。銅板を針で直接ひっかく技法である。画家自身がこちらを見て描き、十一歳のジュリーが横から手元をのぞく。線は少なく、膝から下はほとんど描かれていない。油彩で筆を止めた場所を選んだのと同じ判断が、線の数にも表れている。
パステルの数はさらに多い。クリーブランド美術館の解説によれば、生涯に二百点近くを描いた。多くは人物の習作や肖像で、仕上げの度合いはまちまちである。当サイトの《帽子をかぶったルイーズ・リズネール嬢》はその一点で、淡い青の紙に親しい友人の横顔を描いている。
水彩は1870年ごろから晩年まで続けた。同じ館の《窓辺の裁縫》は、娘の子守りが窓辺で縫い物をする場面である。館の解説では、これを下絵にして、のちに油彩でジュリーを描き加え、画面をより狭く切り詰めた。紙の上で構図を試し、カンヴァスで決める。その手順が見える一点である。
マネの弟子だったのか
弟子ではない。マネと親しくなる前に、モリゾはすでに別の師について学び、サロンにも入選していた。二人は画家どうしとして互いに影響し合った間柄で、1874年からはマネが義兄にもなった。
マネが初めてモリゾを描いたのは、1869年のサロンに出した《バルコニー》である。手すりの前に座る女性がモリゾで、絵はオルセー美術館にある。その後もマネは何度も彼女を描いた。当サイトにも、マネの版画《黒衣のベルト・モリゾ》と《シルエットのベルト・モリゾ》がある。クリーブランド美術館の解説によれば、もとになったのは1872年の油彩《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》である。
影響は一方向ではなかった。モリゾは《ロリアンの港》をマネに贈り、マネは《画家の母と姉》に筆を入れた。アーティゾン美術館の解説も、この頃の二人のあいだに双方向の影響を指摘している。モリゾをマネの影として読むより、同じ時期に同じ問題を解いていた二人と見るほうが、絵の違いがよく見える。マネの側から見た話はマネの代表作にゆずる。
作品はどこで見られるか
ここに挙げた油彩六点のうち、三点はナショナル・ギャラリー(ワシントン)にある。残りはシカゴ美術館に二点、メトロポリタン美術館に一点である。ワシントンの三点は1869年の二点と1890年の一点で、同じ館で初期と晩年を見比べられる組み合わせになっている。版画はクリーブランド美術館にある。いずれも館が公開を認めた画像で、当サイトはそれを使っている。
絵画は光に強いとはいえ、展示替えはある。訪ねる前に館の展示情報を見ておくほうがよい。
まとまった数を見たいなら、パリが中心になる。《ゆりかご》と、マネの《バルコニー》のあるオルセー美術館がまずひとつ。もうひとつはマルモッタン・モネ美術館である。館の寄贈者一覧によれば、1993年に孫ドニ・ルアールとその妻アニーの遺贈が入った。百六十点を超えるその品々が、モリゾの作品の世界一の収集の核になっている。
同じ館には、1893年の《ジュリー・マネと愛犬ラエルト》もある。こちらはモネの息子ミシェルの遺贈で、1966年に入った。館の解説では、夫の死後に移った住まいで、喪服の娘と、マラルメから贈られた犬を描いている。当サイトの《鸚哥と画家の娘》の三年後の姿で、並べて思い浮かべると、同じ娘の成長を絵でたどれる。
日本でも見る機会はある。アーティゾン美術館は2019年に、1872年の油彩《バルコニーの女と子ども》の収蔵を発表した。パリの自邸のバルコニーから、女性と子どもが街を見下ろす絵である。館の解説によれば、遠くにはアンヴァリッドの金色の丸屋根が見える。
《画家の母と姉》のように、館のサイトに記録が整っている作品は、収蔵番号で引けば所在を追いやすい。
初めて見るならどこから見るか
まず初期と晩年の二点を並べるとよい。《画家の母と姉》と《鸚哥と画家の娘》である。同じ身内の絵で、黒の量と輪郭の強さがどれだけ変わったかが一目で分かる。
次に、一枚の中で筆の粗い場所と細かい場所を探す。《化粧する女》なら背中と姿見、《庭の女性》なら服と茂みである。粗い場所を手抜きと見ず、細かい場所との差を見る。それがモリゾの画面の読み方になる。
最後に、同じ時代の画家と比べる。マネの描いたモリゾ、カサットの描いた母子と並べると、誰が何を描かずに残したかが見えてくる。
当サイトで扱っているモリゾの作品は、ベルト・モリゾの作品一覧にまとめてある。室内の人物が多いが、港や庭を描いた戸外の絵もまじっている。並べて見ると、筆のあとの残し方が年ごとにどう変わったかを追える。






