入れない部屋があった——カウフマン、モリゾ、カサットの条件
才能の話ではなく、制度の話をしたい。裸体を描く教室に入れないこと、ひとりで出歩けないこと、作品に手を入れられる側に置かれること。十八世紀から十九世紀にかけての五人の画家が、その条件の中で何を選び、何を主題にしたのかを作品から追う。

青い椅子に、だらしなく坐る子ども
一枚の絵から始めたい。

部屋いっぱいに、同じ布を張った肘掛椅子が四脚並んでいる。青地に小さな花模様の更紗である。
その一脚に、小さな女の子が沈み込んでいる。
坐り方が問題である。背もたれに寄りかかり、両脚を投げ出し、膝が開いている。片腕は頭の後ろへ回されている。
顔は退屈しきっている。こちらを見ていない。どこも見ていない。
左の椅子には、小さな犬が丸くなって眠っている。
床は灰色で、画面の左上へ向かって持ち上がるように描かれている。奥行きが浅く、椅子が模様のように並ぶ。
左下に署名。「Mary Cassatt」。
十九世紀の子どもの肖像といえば、姿勢を正し、花か本を持ち、こちらを見るのが型だった。この絵は、そのどれもやっていない。
この絵は、落とされた
制作されたのは1878年。同じ年、パリで万国博覧会が開かれている。
カサットはこの絵をアメリカ部門に出した。そして、落とされた。
理由の記録は残っていない。推測するしかないが、行儀の悪い子どもの絵が「代表作」として選ばれにくかったことは想像できる。
作者はメアリー・カサット。1844年、アメリカのペンシルヴェニア州生まれ。パリに拠点を置き、印象派の画家たちと行動をともにした。
この絵の背景の一部には、ドガが手を入れたとされている。二人は長く親しく、互いの制作に口を出す関係だった。
構図が、すでに新しい
落選の理由が主題だけだったとは限らない。画面の作り方も、当時としては異例である。
まず、床が持ち上がっている。ふつうの遠近法なら、床は手前から奥へ緩やかに退く。この絵では、灰色の床面が壁のように立ち上がっている。
次に、椅子が画面の端で切られている。左の椅子も、右奥の椅子も、途中で断ち切られたまま画面の外へ出ていく。
三つ目に、余白がない。青い更紗が画面の四隅まで届き、模様が全面を覆っている。
四つ目に、視点が低い。子どもの目の高さ、あるいはそれより下から見ている。
これらは、当時のヨーロッパの絵画の作法ではない。日本の版画の作法に近い。
高い位置から見下ろす、対象を平気で切る、模様を平らに扱う。この影響については別のコラムで詳しく扱っている。
つまりこの絵は、主題も構図も、二重に型を外していた。
カサットが受けた教育
彼女がどう学んだかも見ておきたい。
1861年、十代の終わりにフィラデルフィアの美術アカデミーに入学している。当時のアメリカでは、女性が入れる数少ない美術学校のひとつだった。
ただし、そこでも生きたモデルを描く教室に女性は入れない。石膏像の模写が中心だった。
1866年、パリへ渡る。しかしフランスの国立美術学校は女性を受け入れていない。
そこで彼女が取ったのは、個人の画家の私塾に通い、美術館で模写を重ねる方法である。当時パリに来た女性の画家は、ほぼ全員がこの経路をたどった。
公的な学校に入れないぶん、費用がかかる。裕福な家の出でなければ続かない。
この記事に出てくる画家の多くが、経済的に恵まれた家か、家業として絵に関わる家の出身であるのは偶然ではない。
もうひとつ、結婚という条件がある。
当時、女性が結婚すると、家事と育児が生活の中心になる。制作の時間は激減する。
カサットは生涯独身だった。この選択と、制作を続けられたことは無関係ではないだろう。
一方、家庭を持ちながら描き続けた画家もいる。この記事の後半に出てくる二人がそうである。
どちらの道を選んでも、男性の同輩が考えなくてよいことを考えなければならなかった。条件の非対称は、そこにある。
この記事で扱うこと
この記事は、女性の画家たちの話である。
ただし「才能はあったのに評価されなかった」という筋では書かない。それは結論であって、説明ではないからだ。
代わりに、制度の話をしたい。
何を学べたか。どこへ行けたか。何を描くことが許され、何が許されなかったか。
条件が分かると、残された絵の見え方が変わる。
当サイトで公開している作品から、五人の画家を取り上げる。十八世紀のスイス生まれの歴史画家、十九世紀アメリカのミニアチュール画家と風俗画家、そしてパリで活動した二人。
生きた時代も国も違う。共通しているのは、置かれた条件のほうである。
なお、この記事で扱えるのは西洋の事情に限られる。当サイトで公開している作品の分布が、そちらに偏っているためである。
日本や中国の女性の絵師についても同じ問いは立つが、資料と作品の裏づけが揃っていない。ここでは扱わない。
扱えないことを、扱えないと書いておく。そのほうが正直だろう。