ペンとインクで、運河を引く——アンドリュー・フィッシャー・バナー
帆をたたんだ舟、水面に落ちる影、鐘楼の垂直。色を使わず、線の密度だけで明暗を作った九点を見る。空をほとんど描かないこと、壁の面をどう示すか。ペンという道具の限界と工夫が並んでいる。没後に妻から寄贈された一群でもある。

帆をたたんだ舟
一枚の素描から始めたい。

紙の中央に、一艘の舟がある。
船体は横に長く、両端が跳ね上がる。
甲板には、たたんだ帆が積まれる。
帆布の襞が、細い線で描かれる。
二本の帆柱が斜めに立ち、綱が張られる。
舟の下には、水面を示す短い線が並ぶ。
背景は、ほとんど白いままである。
右下に、細い字で題名と日付が書かれる。
紙の縁は、ぎざぎざに切られている。
ペンとインクで描く
技法欄には、黒インクと鉛筆の跡とある。
つまり、まず鉛筆で薄く当たりを取る。
そのうえから、ペンで線を引く。
インクの線は、消せない。
だから、下描きが要る。
そして、線の太さは、ペン先の押しつけ方で変わる。
強く押せば太く、軽く走らせれば細い。
九点の線は、いずれも細い。
ペン先を軽く使っていることが分かる。
線の密度で、調子を作る
インクの線には、濃淡がない。
黒か、白かのどちらかである。
では、灰色はどう作るのか。
線を並べる。
線の間隔が狭ければ、暗く見える。
広ければ、明るく見える。
つまり、密度が調子になる。
版画と同じ考え方である。
九点を拡大すると、この線の網が見える。
描いた人について
アンドリュー・フィッシャー・バナーは、一八四一年に生まれた。
一八九七年に没している。
五十六歳である。
米国の画家で、風景と海景を描いた。
そして、欧州へ何度も渡っている。
とくにヴェネツィアには、繰り返し滞在したとみられる。
九点のうち、五点がヴェネツィアの主題である。
残りは、ドイツ、そして米国の風景である。
妻からの寄贈
九点は、いずれも同じ寄贈による。
一八九九年、画家の夫人からの寄贈である。
画家の没後、二年である。
つまり、遺品がまとめて館へ渡っている。
素描は、売れる品ではない。
だから、遺族の手に残る。
そして、遺族の判断で、館へ寄せられる。
九点がまとまって残ったのは、その判断のおかげである。
鐘楼を、真ん中に置く
二点目は、建物の絵である。

画面の中央に、高い鐘楼が立つ。
上部に、鐘のための開口が並ぶ。
その頂に、小さな尖塔が載る。
鐘楼の右には、丸屋根の建物がある。
手前には、低い家々が並ぶ。
窓、扉、屋根瓦が、細かく描かれる。
下部には、水面を示す横線が並ぶ。
その上に、小舟が一艘浮かぶ。
空は、白いままである。
空を、描かない
九点のうち、空に線が入るものはほとんどない。
紙の白が、そのまま空になっている。
これは、ペン画の常道である。
空を線で埋めれば、時間がかかる。
そして、建物の線と競合してしまう。
だから、空は残す。
その結果、建物の輪郭が際立つ。
白い空と、黒い線の建物。
対比が明快になる。
壁の面を、どう示すか
建物の壁は、白いままの部分が多い。
そこへ、影の部分だけ線を入れる。
窓の内側、庇の下、屋根の裏。
つまり、暗い場所だけを描く。
明るい面は、紙のまま残す。
この方法だと、線の数が最小で済む。
そして、日差しの強さが伝わる。
南の町を描くには、都合のよい方法である。
対岸から、島を見る
三点目は、横長である。

水面の向こうに、島が横たわる。
右寄りに、高い鐘楼が立つ。
その左に、丸屋根の教会がある。
さらに左には、低い建物が並ぶ。
手前は、広い水面である。
横線が薄く引かれ、水を示す。
左端と右端に、小舟が浮かぶ。
いずれも、数センチの大きさである。
下部に、題名と日付が書かれる。
水面を、線で示す
水面の描き方を見ておきたい。
横に走る短い線が、間隔を空けて並ぶ。
線と線の間は、白いままである。
つまり、水面のほとんどは紙の地である。
線は、波の頂だけを示している。
こうすると、水が明るく見える。
そして、建物の反射も表せる。
建物の真下だけ、線を縦に入れる。
その差で、反射が生まれる。
舟という主題
九点のうち、四点に舟が描かれている。
大きな漁船、運河の小舟、遠くの帆船。
いずれも、水辺の町を示す要素である。
そして、舟は形が複雑である。
船体の曲面、帆柱、綱、帆布。
線だけで描くには、格好の対象になる。
とくに綱は、細い線を引くだけで表せる。
ペン画の得意な主題である。
九点の舟を見比べると、種類が描き分けられている。
街の中の運河
四点目は、狭い場所である。

左右から、建物が迫る。
中央に、細い運河が奥へ伸びる。
その手前に、石造りの橋が架かる。
橋は緩やかな弧を描く。
橋の下に、小舟が二艘つながれている。
建物には、窓と扉が並ぶ。
屋根の上には、煙突が突き出す。
煙突の頭は、鉢を伏せたような形である。
下部に、題名と日付がある。
煙突という細部
ヴェネツィアの煙突は、独特の形をしている。
上が広がり、笠が載る。
火の粉が飛ばないようにする工夫だとされる。
九点のうち、複数の絵にこの煙突が描かれている。
つまり、この形が土地の徴になっている。
建物の形や、窓の割り付けと同じである。
土地の特徴を、細部で示す。
風景の素描では、この蓄積が後で効く。