風景の画家が、人物を描く——カミーユ・コロー
子どもの背中
いま見た一点は、九点のなかで最も変わった構図である。
人物が背中を向けている。顔がほとんど見えない。
肖像なら、まずありえない構えである。誰かを示すことができない。
だから、これは人物の記録ではなく、動作の記録に近い。
題にある、もの珍しげ、という語も、姿勢から付けられたものだろう。
支持体が、三種類
九点の支持体を見ると、三通りある。
カンヴァスが六点、板が二点、厚紙が一点である。
板は小さな画面に使われる。厚紙も同様である。
大きな画面はすべてカンヴァスである。大きさと支持体が対応している。
厚紙に描いたものは、あとから板に貼られている。そのままでは保たないからである。

女性が卓に肘を置く。上体をやや右へ倒す。
衣は白い上衣に、赤い胸当てが重なる。細かい模様が入る。
腰から下は黒い裾で、その上に赤と白の模様の前掛けが掛かる。
頭には黄色い布が巻かれる。
首には白い珠の飾りが二重に巻かれる。耳には輪の飾りがある。
顔はこちらを向く。目が大きく、口を結ぶ。
背景は褐色と緑で、右に卓の面が広がる。
九点のなかで、衣装が最も細かく描かれた一点である。
卓と柵と石
九点の人物は、たいてい何かに寄りかかる。
石の柵、卓の面、画架の脇。体の一部を預ける形である。
寄りかかると、姿勢が安定する。長く同じ格好でいられる。
同時に、画面に水平の線が入る。人物の縦の形と組み合わさる。
構図としても、模特児の都合としても、理にかなっている。
衣装という約束
イタリアの民族衣装は、当時のフランスの画室でよく使われた。
模特児が着て、南の国の人物になる。実際の出自とは関係がない。
九点のうち三点が、この衣装を着ている。
衣装があると、絵は特定の場所を離れる。誰でもない誰かになる。
見る側は、その約束を知って見ることになる。

九点の最後は、石の縁に寄りかかる女性である。
右手を頭に当てる。肘が高く上がる。
左手は膝の上にあり、青い小さな本を持つ。
衣は白い上衣に、暗い色の胴着が重なる。袖がふくらむ。
頭には黄色い布が巻かれる。
顔は下を向き、目が伏せられる。
背景は暗い緑で、奥に山らしい形がある。空は薄い。
手前の石は灰色で、面が平らである。
年の欄には、1857年か、それ以降、と書かれる。下限だけが決まっている。
年の書き方が、四通り
九点の年の欄を並べると、書き方がそろわない。
およそ、が付くものが四点。幅で書かれるものが二点。
二つの年を、と、でつなぐものが一点。年か、それ以降、と書くものが一点。
一年で断定されているものは一つもない。
人物画は展示や売買の記録が少ない。だから年が決めにくい。
二つの館に分かれる
九点は、二つの館に分かれて所蔵されている。
四点がワシントンの館、五点がニューヨークの館にある。
記録の書き方も違う。額の寸法を書く館と、書かない館である。
年の書き方も揃わない。斜線を使う館と、から、と書く館がある。
同じ画家の同じ主題でも、記録の形は館ごとに決まっている。
風景は、どこへ行ったか
九点のうち六点に、背景として風景が入る。
木立、野、水面、山。いずれも輪郭がぼやけ、色が沈む。
同じ画家の風景画では、その木立が主役になる。ここでは脇役になる。
つまり、風景の描き方はそのままで、位置だけが変わっている。
銀灰色の調子については、銀灰色は、どこから来たのか——カミーユ・コローの風景で扱った。九点の背景にも、その調子が残っている。
顔の細部
九点の顔を近くで見ると、描き込みは多くない。
目の輪郭、鼻筋、口の線。それぞれ数本の筆で置かれる。
睫毛や瞳の光は、ほとんど描かれない。
それでも表情が伝わるのは、顔の向きと目の伏せ方が効いているからである。
細部ではなく、向きで感情を示している。
人物と風景の距離
人物画と風景画は、別々の仕事に見える。
しかし九点を見ると、同じ手が動いている。
輪郭を強く取らず、色の面を重ねる。細部より、全体の調子を優先する。
顔の描き方も、遠くの木の描き方と似ている。境目をぼかす。
だから、この九点は風景画家の人物画である。人物画家の人物画とは、作りが違う。
額の記録がある三点
九点のうち三点には、額の寸法が記録されている。
奥行きは9.5センチ、11.4センチと、厚みのある額である。
残る六点には、額の寸法がない。館の方針の差である。
額の厚みは、画面の大きさに対して大きい。当時の額の作りによる。
数字だけからでも、掛かっている姿がある程度想像できる。
静けさという印象
九点をまとめて見ると、静かである。
叫ぶ人も、走る人も、争う人もいない。
座るか、立つか、寄りかかるか。動きは最小限である。
物語を語らない人物画は、当時としては珍しい部類に入る。
その静けさは、風景画の静けさとよく似ている。
見せなかった絵
生前に見せなかったのなら、これらは何のために描かれたのか。
売るためでも、名を上げるためでもない。
試すため、あるいは、描きたかったから。そう考えるほかない。
その事情は記録に残らない。残るのは、画室に積まれていた画面だけである。
九点は、その積み重ねの一部である。仕事の外側に、こういう時間があった。









