綿は、刷るための布——ケーハル・シング・ヴェルネ・ウォルコットほか九点
綿が、学校の名になる
八点目では、綿は人の名である。

横長の写真である。
画面は19.4×27センチある。
一枚の台紙に、二つの写真が上下に貼られる。
上の写真には、大勢の人が並ぶ。
建物の壁を背にして、三段に立つ。
壁には、蔦が絡む。
人数は、五十を超える。
顔の一つずつは、爪の先ほどしかない。
表情までは分からない。
並び方だけが、はっきりしている。
多くは黒い上着である。
下の写真には、七人がいる。
前列の三人は椅子に座る。
後列の四人は立つ。
みな黒い上着と、白い襟である。
一人は、手に帽子を持つ。
床は板張りで、線が横に走る。
背後には、格子の入った戸がある。
戸の上には、細い庇がある。
光は上から来ている。
影は、人物の足元に短く落ちる。
屋外の光であることが分かる。
館の記録では、これらの写真は、いまはばらばらになった画帖の一部である。
その画帖には、この国で撮られた百五枚ほどの写真があった。
そして館は、この写真家について書いている。
いまも、当時も、この国の十九世紀で最も重要な写真家とされているという。
館の記録は、そう説明している。
題にある綿という語は、学校の名の一部である。
その名は、二つの語からできている。
前の語は聖職の位で、後ろの語が姓である。
その学校を創った人の姓である。
つまり画面にも、材料にも、綿はない。
写真の材料は、紙と卵白と銀である。
人物の衣も、写真では材質が分からない。
九点のうち、綿が人の名なのは、この一点である。
綿と名のつく、別の植物
最後の一点では、綿ではない。

縦長の小さな水彩である。
紙は25.3×17.7センチしかない。
地は、白に近い薄い黄色である。
画面の中央に、細い茎が四本立つ。
茎は緑で、まっすぐ伸びる。
根元では、茎が寄り集まる。
それぞれの茎の先に、白い塊がある。
塊は球形で、外へ広がる。
細い毛が、放射状に出ている。
毛の一本ずつが、描き分けられている。
毛の先は、透けて見える。
塊の中心には、小さな粒がある。
葉は細く、茎に沿う。
背景には、何もない。
左下に、小さな文字がある。
文字は三行で、頭文字と名と日付らしい。
鉛筆で薄く書かれている。
日付は、描いた日らしい。
年の欄と一致している。
館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。
題には、綿という語が入る。
しかしこれは、綿の仲間ではない。
湿地に生える草である。
綿の木は、暖かい土地の低木である。
こちらは、寒い湿地に生える。
育つ場所が、まるで違う。
種を飛ばすための毛が、綿のように見える。
だから、その名で呼ばれる。
九点のうち、綿でないものは、この一点である。
そして毛の描き方は、綿の描き方と同じである。
どちらも、白い繊維の塊である。
光を通し、輪郭が定まらない。
細い線を、放射状に並べる。
見た目が似ていれば、描き方も似る。
名前が似るのも、同じ理由である。
触れば違うが、見れば似ている。
数えてみると
九点を並べ直す。
綿の布そのものは、四点である。
木版の捺染布、銅版の捺染布、兜の詰め物、そして衝立の布。
材料が疑われている布を加えれば、五点になる。
衝立の布も数えれば、布は五点である。
数え方で、答えが動く。
衝立の表と裏については、衝立の両面で扱った。
綿が畑にあるのが、一点。
綿を紡ぎ織る場面が、一点。
綿が名前なのが、一点。
綿でない植物が、一点である。
もう一つ数える。
九点のうち、綿が見えないのは三点である。
兜の詰め物、学校の名、そして畑の白い点。
畑の点は、遠すぎて数えられない。
数えられるのは、絵の具の粒のほうである。
描かれた数と、あった数は違う。
さらに数える。
九点のうち、館の記録の材料の欄に綿という語があるのは五点である。
そのうち一つには、疑問符が付いている。
確かに綿だと言えるのは、四点である。
残る四点では、綿は題か説明文の中にある。
題にあるのは、二枚の捺染布と、畑と、草の名。
説明文にあるのは、紡ぎ織る場面である。
学校の名だけは、題にも説明文にもある。
名前は、材料の欄には決して入らない。
欄の区別が、語の役目を分けている。
言えることと、言えないこと
言えるのは、綿が「刷るための布だ」ということである。
絹より安く、面が平らである。
だから版を押せる。
木版なら多色で線が太く、銅版なら一色で線が細い。
九点のうち二点が、その二つの方法だった。
絹に刷った例は、別の回で見た。
しかし絹は高く、日常の布にはならない。
数を刷るなら、綿である。
言えないのは、綿という語が綿を指すとはかぎらないという点である。
学校の名にある綿は、人の姓である。
草の名にある綿は、見た目のたとえである。
同じ語が、材料と、名前と、たとえに分かれる。
三つを見分けるには、記録を読むしかない。
画面だけでは、どれか決められない。
最後に、はじめの一枚へ戻る。
地面に座る二人の前に、糸が束になって伸びている。
その糸は、綿の毛を撚ったものである。
館の記録は、この布が最も重要な輸出品だったと書いていた。
しかし画面にあるのは、枝で組んだ機と、二人の人だけである。
九点を数え終えて残るのは、その規模と画面の落差のほうである。
最も重要な輸出品は、二人の手から出ていた。
手の数だけが、画面に描かれている。
量は、記録の言葉のほうにある。
画面は、量を描かない。
描けるのは、一つの機と、二人の手だけである。
それを見て、その先を想像するしかない。









