画家を知る

締め切りのない絵——ドーミエの油彩

客席の顔、顔、顔

後半は、ドーミエが油彩で繰り返し描いた、もうひとつの主題を見たい。

絵や芝居を「見る側」の人間である。

フランス座
オノレ・ドーミエ《フランス座》1856年ごろ。油彩・板。縦25.9センチ、横35センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。オノレ・ドーミエ《フランス座》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

芝居見物の客席である。舞台はほとんど見えない。

見えるのは、明かりに照らされた観客の顔、顔、顔である。

身を乗り出す者。連れに何かささやく者。浮かない顔で腕を組む者。

同じ芝居を見ているのに、顔つきは一人ずつ違う。

芝居そのものより、芝居を見る人間のほうが面白い。

この視線の向け方は、まぎれもなく風刺画家のものである。

紙面で観客席を描き続けた人が、油彩でも客席へ目を向けている。

舞台の照明が客席の下から回り込み、顔を明るく縁取っている。

その光のあて方は、そのまま石版画の白と黒の設計である。

ただし、ここでも毒は抜かれている。誰の顔も、戯画にはなっていない。

白い頭巾が、並ぶ

見る人々は、劇場だけでなく、教会にもいる。

教会にて
オノレ・ドーミエ《教会にて》1855〜57年。油彩・板。縦15.2センチ、横21.7センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。オノレ・ドーミエ《教会にて》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦15.2センチ。手のひらに載るような、小さな板である。

暗い堂内に、祈る女たちが座っている。白い頭巾だけが、点々と明るい。

顔の造作は、ほとんど描き込まれていない。数筆の素描のような小品である。

それでも、うつむく首の角度と丸めた肩が、祈りの時間の長さを伝えてくる。

見えない何かへ顔を向ける人々もまた、「見る人」である。

小さな板の上で、筆は最小限のことしかしていない。

その最小限が、ちょうど過不足のないところで止まっている。

これも「未完成」と呼べるのかもしれない。

だが、これ以上の筆を足す場所が、どこにも見当たらないのである。

素描を、めくる手

見る人の絵は、画家の仕事場にも及ぶ。

若い画家への助言
オノレ・ドーミエ《若い画家への助言》1865〜68年ごろ。油彩・画布。縦41.3センチ、横33センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。オノレ・ドーミエ《若い画家への助言》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

年上の画家が、若い画家の素描の束を膝の上でめくっている。

若者はかたわらに立ち、身を固くして判定を待っている。

紙の白が、暗い室内でいちばん明るい。視線はすべてそこへ集まる。

紙を見る目と、見られる者の緊張。ここでも主役は「見る」ことである。

所蔵館の記録によれば、この絵は風景画家コローの旧蔵品だった。

コローの死後、1875年の遺産売り立てに出たことが記録されている。

コローはドーミエの友人であり、晩年の恩人でもあった。その話は後で触れる。

画中の助言する側の姿に、当時の人は持ち主の面影を重ねたかもしれない。

競売場で、絵が値踏みされる

そして、見ることがそのまま金額になる場所も描いた。

ドルオー館にて
オノレ・ドーミエ《ドルオー館にて》1863〜73年。油彩・板。縦24.1センチ、横18.4センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。オノレ・ドーミエ《ドルオー館にて》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

パリの競売場ドルオー館である。係の男が、金の額縁の絵を高く掲げている。

その前に、買い手たちの群れ。首を伸ばし、目を細め、品定めをしている。

黒い外套の背中が並び、その隙間から幾つもの横顔がのぞく。

熱気と、そろばん勘定と、少しの見栄。競売場の空気がそのまま画面にある。

画面の下には「A L'hotel Drouot」と書き込みがあると所蔵記録にある。

競売場の名を、画家自身が画面に記したことになる。

掲げられた絵そのものは、よく見えない。描かれているのは、値踏みする目つきである。

芝居を見る顔、祈る背中、素描をめくる手、そして競売の目つき。

ドーミエは、見られる絵ではなく、見る側の人間喜劇を描き続けた。

絵とは何かという問いに、絵の周りの人間を描くことで答えている。

晩年——目が、先に衰えた

その晩年は、明るくなかった。

視力が衰え、石版画の仕事も細り、暮らしは困窮したと伝えられる。

目で稼いできた人にとって、目の衰えは筆を折られるに等しかっただろう。

パリ郊外の住まいは、友人コローが用立てたものだったと伝えられる。

素描をめくるあの絵の持ち主が、現実でも助ける側に回ったことになる。

死の前年の1878年、画商デュラン=リュエルの画廊で、初の個展が開かれた。

七十歳にして初めて、油彩の仕事がまとめて世に出たのである。

だが売れ行きは振るわなかったと伝えられる。翌1879年、ドーミエは没した。

油彩画家としての評価は、ほとんどが死後にやってきた。

今回並べた八点の来歴を所蔵記録で追うと、多くが死後に画商や収集家の手を巡っている。

生前に紙面で誰もが知っていた名前が、画布では死後にようやく見出された。

見立て——毒を抜いた、同情の絵

当サイトの見立てを書いておきたい。

ドーミエの油彩は、風刺の毒を抜いた、同情の絵である。

新聞の石版画は、権力と虚栄を笑いの毒で刺す仕事だった。

同じ時代のクールベの挑発を思い出したい。

クールベは油彩そのものを武器にして、堂々と世間に喧嘩を売った。

同じレアリスムの時代を生きても、闘い方は人それぞれである。

ドーミエは逆だった。武器は新聞に置いてきた。油彩では、誰も刺さなかった。

三等車両の老婆も、物乞いも、曲芸師も、洗濯の母子も、笑いものにされていない。

笑わせる仕事の裏で、この人は笑えない現実を静かに描き溜めていた。

そして、その多くを仕上げる時間が、最後までなかった。

締め切りのない絵は、いつでも再開できる。そして、いつまでも終わらない。

透けた格子も、灰色の塗り残しも、本業の合間という時間の痕跡そのものである。

未完成は失敗ではない。新聞の人の油彩が生きた、時間の形である。

もう一度、三等車両へ

最後に、最初の絵へ戻りたい。

三等車両の、あの茶色い車内である。

籠を抱いた老婆は、方眼の格子越しに、今もまっすぐ前を見ている。

その視線の先に何があるのか、絵は語らない。

籠の中身も、行き先も、隣の眠る少年との関係も、わからないままである。

それでも、この人がどういう一日を生きてきたかは、伝わってくる。

締め切りに追われ続けた人が、締め切りのない画布に残した人々である。

完成を待たずに残されたからこそ、描いていた時間ごと、こちらへ届く。

もしこの絵の前に立つ機会があれば、格子の線をそっと目でなぞってみてほしい。

そこにあるのは欠落ではない。新聞の人が油彩と過ごした、密度の高い時間である。

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