散らかった家を、丁寧に描く——ヤン・ステーン
宿の亭主として
最後の一枚は、大きい。

縦141センチ、横131.4センチ。ほぼ正方形に近い。
屋外のテラスである。奥に建物と樹木が見える。
中央に卓があり、人々が集まっている。
女が一人、卓のこちら側に座ってこちらを見ている。
その隣で、男が笑っている。
左奥には年配の女がいて、口を開けている。
手前には犬が二匹いて、じゃれ合っている。
右には梯子に乗った男が、上を向いている。
床には皿が落ち、道具が転がっている。
やはり、散らかっている。
画家が、絵の中にいる
この絵の中央で笑っている男について、一つ言われていることがある。
画家自身の顔である、という説である。
ヤン・ステーンは、自分の顔を絵に入れたとされる作例が複数ある。
宿の亭主として、あるいは騒ぎの参加者として。
もしそうだとすれば、これは面白い立場だ。
説教する側ではなく、される側にいることになる。
叱りながら、自分もその場にいる。
だからこの絵の教訓は、上から来ない。
ただし、この同定にも慎重さが要る。
顔立ちの一致だけを根拠にした説も多い。
当方としては、そういう見方があると紹介するにとどめる。
細部の量
ここで、これら六点に共通することを挙げたい。
細部が、とにかく多い。
一枚あたり、数十の物が描かれている。
食器、楽器、紙、食べ物、動物、家具。
どれも省略されずに描かれている。
しかも、それぞれ質感が違う。
金属は光り、布は沈み、パンはざらつく。
つまり、細部を描く技術がまず前提にある。
散らかった絵を描くには、散らかった物を一つずつ描けねばならない。
その手間を、この画家は惜しんでいない。
光の置き方
構図の話に戻る。
これだけ物が多いと、画面は普通うるさくなる。
そうならないのは、光の使い方による。
どの絵でも、明るい部分は限られている。
《踊る男女》では、中央の二人だけが白い。
《しまりのない家》では、卓の上と女の顔が明るい。
《恋わずらいの娘》では、金色の衣が光を集める。
その他は暗く沈められている。
見る人の目は、まず明るいところへ行く。
そこから、暗がりの細部へ降りていく。
この順序が、あらかじめ設計されている。
笑いと、時間
もう一つ、共通することがある。
どの絵も、動きの途中を捉えている。
踊りの一歩、酒を注ぐ手、脈を取る指、弓を引く腕。
止まっている人が、ほとんどいない。
風俗画は静物ではない、ということである。
そして動きの途中は、たいてい滑稽になる。
人は、動いているときに間が抜ける。
ステーンは、その瞬間を選んでいる。
動物が置かれる位置
犬と猫の使い方にも、決まりのようなものがある。
犬は、たいてい人の輪の中か、その足元にいる。
《テラスの陽気な仲間》では、手前で二匹がじゃれ合っている。
《恋わずらいの娘》では、床に寝そべって場を和ませている。
一方、猫は画面の隅の暗がりにいることが多い。
《しまりのない家》の猫は、左下でほとんど影に溶けている。
犬は場に参加し、猫は場を見ている。そういう役割分担に見える。
動物は、人の視線が届かない場所を埋める道具でもある。
画面の隅が寂しくなったところに、一匹置けば持つ。
そして動物は、卓の食べ物を狙う。管理の甘さを示す小道具にもなる。
一匹で、構図と教訓の両方を担わされている。
六点の並べ方
六点の年代を並べてみる。
1660年ごろ、1663年、1663年から64年、1666年、1667年、1670年ごろ。
十年ほどの幅に収まっている。
その間、主題も画面の作りも、大きくは変わらない。
変わるのは、画面の大きさである。
最も小さいのが《音楽の稽古》で、縦62.1センチ。
最も大きいのが《テラスの陽気な仲間》で、縦141センチ。
大きい絵ほど、人物が増える。
小さい絵は、二人に絞られている。
寸法が、話の規模を決めている。
散らかった家を、丁寧に
最後に、この六点をどう見ればいいかを書いておきたい。
叱られている絵だと思うと、少し窮屈である。
かといって、ただの笑い話でもない。
当方が面白いと思うのは、その扱い方の丁寧さである。
だらしない場面を、いい加減には描いていない。
床に落ちた紙一枚まで、きちんと描いている。
対象への評価と、描く手つきは別のことだ。
批判する対象を、粗末に描く必要はない。
このことは、風俗画に限らないと思う。
当サイトで扱った
イーストマン・ジョンソンの日常や、
マウントの村にも同じ姿勢がある。
日常を描くというのは、日常を軽く扱うことではない。
ヤン・ステーンの散らかった家は、ずいぶん丁寧に散らかっている。
いま、この絵をどう置くか
最後に、いまの暮らしに引き寄せて考えてみたい。
これらの絵は、部屋に飾るとどうなるだろうか。
静かな風景画や、整った静物画とは、まったく違う効き方をするはずである。
人が多く、物が多く、音が聞こえてきそうな画面だからだ。
食卓のある部屋や、人が集まる場所には、案外よく合うかもしれない。
逆に、寝室のような静かな場所には向かないだろう。
絵を選ぶとき、上手か下手かだけでは決まらない。
その絵が部屋に何を持ち込むかを、考えることになる。
ステーンの絵が持ち込むのは、賑わいと、少しの後ろめたさである。
四百年近く前の他人の家の騒ぎが、いまも同じように効く。
それだけの強さで描かれている、ということだと思う。
散らかった家の絵は、案外どこにでも掛かる。
人の気配のある部屋なら、たいてい馴染むはずである。







