同じ姓が、九回並ぶ——後藤家の小柄
三百年、同じ規格
九点の年の欄を、古い順に並べてみる。
十六世紀後半から、十九世紀初めまで。
およそ二百五十年の幅がある。
そのあいだ、寸法はほとんど動いていない。
長さ9.7センチ、幅1.4センチ。
材料も、赤銅を地にする点で共通する。
変わったのは、彫る図だけである。
これほど長く規格が保たれるのは、珍しい。
刀の拵えという受け皿が、変わらなかったからだ。
受け皿が変われば、道具も変わる。
十九世紀の終わりに刀を差さなくなると、小柄も作られなくなる。
規格を支えていたのは、美意識ではなく用途である。
部門の名と、品名の欄
九点は、武具の部門に収められている。
刀に付ける部品だから、その分類になる。
品名の欄には、道具の名がそのまま入る。
小柄。目貫。笄。鐔。
いずれも、他の言語に訳しにくい名である。
館は、まず用途を説明する語を置き、括弧に元の名を入れる。
刃物の柄、括弧して小柄。
材料の欄と同じ書き方である。
説明を先に、固有の名をあとに。
読む人が何も知らなくても、まず用途は伝わる。
そのうえで、元の名を知る手がかりが残る。
美術館の記録は、この二段構えを繰り返している。
図の題が、付いていない
九点には、いわゆる作品名がない。
題の欄に入るのは、道具の名だけである。
何を彫った小柄か、という情報は入らない。
魚を彫っても、獅子を彫っても、題は同じになる。
絵画であれば、まず題が付く。
道具では、題より品名が先に立つ。
分類の単位が、絵と道具では違うということだ。
そのため、九点は題では区別できない。
区別できるのは、番号と作者の名だけである。
図の内容は、写真を見るまで分からない。
記録を読むだけでは、九点は同じ顔をしている。
揃いの道具という単位
同じ群には、小柄だけでなく別の道具も含まれている。
髪を整える笄、柄に付ける目貫。
そして、小柄。
この三つを同じ作者が揃いで作ることがある。
館の記録では、三点で一つの番号を持つ。
寸法の欄には、三点ぶんの数字が並ぶ。
笄が二十一センチ、目貫が四センチ、小柄が9.7センチ。
三つで一組という単位が、記録の上でも保たれている。
いま見ている九点は、そこから外れた単品である。
単品でも、寸法は揃いのものと変わらない。

金の縁が四辺を囲む。
地は黒く、粒が細かい。
中央から右へ、菊の花が三輪ほど並ぶ。
花弁は金で、一枚ずつ立ち上がる。
その下に、葉が黒く広がる。
葉は赤銅のままで、金を置かない。
左には、細い茎が一本のびる。
茎の先に、小さな蕾が付く。
花の位置が右に寄り、左に余白ができる。
余白を残す作りは、九点に共通する。
括弧の中の、もう一つの名
九点のうち四点は、作者の欄に括弧がある。
括弧の外に家を継いだあとの名、中に別の名が入る。
同じ人を、二通りに呼べるということだ。
ところが、この四点を見比べると、妙なことが起きている。
同じ読みの個人名が、別々の代に振られている。
九代の括弧の中と、十二代の括弧の中が重なる。
同名の別人なのか、記録の混線なのか。
館は、その点について何も注記しない。
こちらで判断できることではない。
判断できないという事実を、そのまま書いておく。
美術館の記録は、人名の扱いがいちばん揺れやすい。
同じ人が改名し、同じ名を別の人が継ぐからだ。
前の回の記事でも、作者の欄の揺れを繰り返し見てきた。
一つの群が、九点で終わらない
同じ番号の頭を持つ品は、小柄だけではない。
揃いの道具、目貫、そして別の小柄。
いずれも同じ家の、同じ年の受入である。
つまり、この群はもっと大きい。
九点は、その一部を切り出したものにすぎない。
群の全体を並べれば、代の重なりはさらに濃くなる。
同じ代の作が、二点も三点も含まれる。
家の仕事をまとめて手に入れた収集家がいて、それが館に渡った。
出所の行の一文は、そこまでは書かない。
書かれるのは、基金の名と年だけである。
短い一行の背後に、一つの収集の歴史がある。
家の名で作るということ
九点の作者の欄には、九つの名がある。
しかし、そこにあるのは九人分の個性ではない。
同じ寸法、同じ材料、同じ地の作り。
変えてよいのは、何を彫るかだけである。
家を継ぐとは、その枠を引き受けることだ。
引き受けたうえで、一点ずつ違うものを作る。
前の回の記事で、版元と絵師と彫師の分業を見た。
こちらは、分業ではなく継承である。
横に分かれるのではなく、縦につながっている。
どちらも、一人の思いつきでは動かない仕組みだ。
記録が、家を記録するとき
館の記録は、家という単位を持たない。
作者の欄に入るのは、あくまで個人の名である。
だから九点は、九人の作品として登録される。
家がひとまとまりであることは、欄には書かれない。
書かれないが、番号の連なりがそれを示す。
同じ日に、同じ経路で、九点が入った。
売った側は、家の作として売ったはずである。
買った側も、家の作として買ったはずだ。
その事情は、出所の行の一文には収まらない。
記録は、個人の名と番号だけを残す。
残ったものを九点並べて、はじめて家が見えてくる。
並べる作業は、記録の側ではなく、読む側の仕事である。
九点を並べ終えて残るのは、名の一覧ではない。
規格と、その中で許された自由の幅である。
長さは動かせない。地の作りも動かせない。
動かせるのは、幅一センチ余りの面に何を置くかだけ。
その一点に、二百五十年ぶんの工夫が集まっている。
小さいものほど、比べる甲斐がある。
九点を閉じたあとに、もう一度番号だけを見返してみる。
45.24。この五文字が、九点すべての頭に付く。
年と、その年の何番目の群かを示す数字である。
群の中の順番だけが、点ごとに違う。
番号は、作品の性質を何も語らない。










