都市と畑の、あいだに立つ——カミーユ・ピサロ
名所ではない場所
この風景の重要な点は、名所ではないことだ。
有名な山も、名高い遺跡も、絵になる廃墟も無い。ただ、耕された土地がある。
十九世紀の風景画の常識では、これは主題になりにくい。
風景画が理想の場所を組み立てるものだったことは別のコラムで扱っている。実在の場所を描く場合でも、たいていは名所が選ばれた。
ピサロは、その選別をしない。畑を畑として描く。
同じ姿勢は、同時代のクールベにも見られる。彼も故郷の名も無い谷を描いた。別のコラムで扱っている。
ただしクールベの画面は暗く、閉じている。ピサロの画面は明るく、開いている。
態度は近いが、気質が違う。
クールベは主題の格を書き換えることで挑発した。ピサロは挑発しない。ただ淡々と畑を描く。
同じ「名も無い場所を描く」でも、身振りが違う。
そして、身振りの無さが、評価の受けにくさにつながった面もあるだろう。
批評は、事件を必要とする。事件を起こさない画家は、書かれにくい。
人が、働いている
もうひとつ、この画面の特徴がある。人がいることだ。
小道を歩く男。柵の向こうで作業する人物。畑の中にも小さく人影がある。
彼らは風景を眺めていない。働いている。
十九世紀の風景画に登場する人物は、たいてい旅人か行楽の客である。景色を見る側の人間だ。
ピサロの人物は、その土地で生計を立てている人である。
この違いは小さく見えて、絵の意味を変える。風景が「眺めるもの」ではなく「働く場所」になる。
戦争で、絵が失われた
経歴に、大きな断絶がある。
1870年、普仏戦争が起きた。ピサロはルーヴシエンヌの家を離れ、ロンドンへ避難する。
戦後に戻ると、家は軍に使われていた。残していた作品の多くが失われている。
失われた点数については、千数百点という数字がしばしば挙げられる。ただし正確な記録があるわけではなく、後年の推定である。
いずれにせよ、四十歳までの仕事の大半を一度に失ったことになる。
いま彼の初期作が少ないのは、この事件のためでもある。

戻ってきた翌年の作品である。
手前の大きな一本が、白い花を満開につけている。枝は左右に広がり、画面の上半分を覆う。
その下は耕された土である。掘り返された茶色の塊が、点々と続く。
左端に、青い服の人物がしゃがみ込んで作業している。右手には、籠を持った男が歩いていく。
空は明るい青。小さな白い雲がいくつか浮かぶ。
失ったものについての絵ではない。ただ、春の果樹園と、そこで働く人がいる。
花の白と、土の茶色。この対比が画面のすべてである。
農民を、大きく描く
1880年代に入ると、人物が画面の前へ出てくる。

近景いっぱいに、一人の老人が描かれている。
日焼けした顔、白い顎鬚、褐色の帽子。上着の上から青い前掛けをつけている。
手は大きく、赤黒い。指が短く、太い。長年の労働の手である。
視線は下、抱えたキャベツに向いている。こちらを見ていない。
背景は、緑のキャベツ畑で埋め尽くされている。
点で、描かれている
技法にも注目したい。
この画面は、細かい点と短い筆で埋められている。輪郭線はほとんど無い。
顔の肌には、桃色、橙、緑、青が並置されている。混ぜてから塗るのではなく、隣に置いている。
これは1880年代の後半、彼が新印象派の方法を取り入れた時期の名残である。
スーラが点を並べた方法については別のコラムで詳しく扱っている。
年長のピサロが、二十歳以上若いスーラの方法を採用したことは、当時かなり驚かれた。
もっとも、数年で彼はこの方法から離れる。時間がかかりすぎ、画面が硬くなるというのが理由だったとされる。
制作年が「1883〜95年」と幅を持っているのは、途中で手を入れ直したためだろう。
十年以上、手元に置いて直し続けた絵ということになる。
農民を主題にした画家としては、ミレーが先行している。ただし方向が違う。
ミレーの農民は、しばしば祈るような姿勢で、宗教画のような荘厳さを帯びる。
ピサロの老人にそれは無い。ただキャベツを抱えている。象徴でも寓意でもない。
英雄化も、憐憫もしない。これは意外に難しい態度である。
農村を描くとき、人はどちらかに寄りがちだからだ。
窓から、通りを見る
晩年、彼の主題は劇的に変わる。都市である。

パリの大通りを、上から見下ろした画面である。
道は左下から右上へ斜めに走り、両側に高い建物が並ぶ。
道の上には、馬車、乗合馬車、荷車。そして無数の人。
一人ひとりは、絵具の点ひとつか、短い一筆で描かれている。顔は無い。
街路樹は葉を落としており、細い枝が網のように広がる。
日の当たる部分は淡い桃色、影は青灰色。