作品を知る

絵のなかでは、大人もよく遊ぶ——華嵒・リュノワ・ネッチェルほか九点

遊ばずに、道具を持つ子

九点のなかには、遊んでいない一点もある。

台紙に貼られた、古い写真である。

レースの大きな襟を付けた男の子が、こちらを見ずに立っている。

腰には白いベルト。

両手は、床に立てたおもちゃの銃の銃身を握っている。

足を交差させた、作られた立ち姿である。

無題(レースの襟とおもちゃの銃を持つ少年)
ロイトリンガー写真館《無題(レースの襟とおもちゃの銃を持つ少年)》1880年から99年。館の記録では、ゼラチン・シルバー・プリント。画面は19.1×13.3センチ。番号は2022.356。クリーヴランド美術館蔵。ロイトリンガー写真館《無題(レースの襟とおもちゃの銃を持つ少年)》クリーヴランド美術館蔵

19世紀末、パリの写真館で撮られた一枚である。

台紙には、写真館の名が金色の飾り文字で入っている。

背景は靄のような無地で、場所を示すものは何もない。

視線はレンズを外れ、どこか遠くの一点に向けられている。

館の記録は、この写真を少し重い言葉で読む。

銃を持たせた肖像は、男らしさと軍隊とを結ぶ当時の空気を映すという。

1870年からの戦争に敗れたあと、フランスには雪辱を望む気分が強かったとある。

この子がのちに兵士になったのかどうか、記録は知らない。

後から振り返れば従軍を思わずにいられない、と記録は言葉を足すだけである。

確かなのは、銃がおもちゃであることと、遊びの最中ではないことである。

おもちゃの銃が、写真館では小さな軍装の道具のように扱われている。

手に持ち物を持たせた子どもの肖像の回と同じ型がここにもある。

遊び道具は、遊ばれていないとき、その子の説明書きになる。

遊びを、危ういと見る目

最後の一点は、遊びに水を差す絵である。

大きな木が、画面の真ん中に立っている。

梢の巣のふちに鸚鵡がとまり、巣のなかの雛を見下ろしている。

木の下では、狐の子たちが跳ねまわって遊んでいる。

跳ぶもの、駆けるもの、身を低くして構えるもの。

幹の低いところには小さな鳥たちがいて、狐の子と入り交じる。

奥には棕櫚のような高い木が立ち、空は夜のように青い。

左では母狐が横たわり、一匹に乳を飲ませている。

絵の下には、ペルシア語の文章が行を連ねる。

狐と遊ぶ危うさを子に諭す母鸚鵡(鸚鵡の物語・第五夜より)
ダサヴァンタ《狐と遊ぶ危うさを子に諭す母鸚鵡(鸚鵡の物語・第五夜より)》1560年ごろ。館の記録では、紙にガム・テンペラとインクと金。絵は10×10.5センチ。番号は1962.279.32.a。クリーヴランド美術館蔵。ダサヴァンタ《狐と遊ぶ危うさを子に諭す母鸚鵡(鸚鵡の物語・第五夜より)》クリーヴランド美術館蔵

ムガル朝、アクバル帝の宮廷で作られた写本の一葉である。

鸚鵡の物語という説話集の、第五夜の場面だという。

館の記録では、物語の語り手は飼われている鸚鵡である。

夜ごと女主人に語って聞かせる話の枕として、この母鸚鵡が登場する。

館の記録では、母鸚鵡は木の上に巣を構えて雛を育てていた。

雛たちは、木の根元に住む狐の子と遊ぶのを好んだとある。

題によれば、母鸚鵡はその遊びの危うさを子に諭している。

付記には、母狐も乳をやりながら他の子から目を離さない、とある。

画面の遊びはのびやかで、諭す声はまだ届いていないように見える。

動物の子も遊び、その母も人の母と同じ心配をする。

遊びは子どもの時間、という言い方が、ここでは種を超えて成り立つ。

遊び手を、数え直す

九点の遊び手を数え直してみる。

並べてみれば、16世紀から19世紀まで、インドから中国、アメリカまで。

三百年余りと三つの大陸に、遊びの絵は散らばっていた。

遊んでいるのが子どもの絵は、三点ある。

スター家の五人、華嵒の子どもたち、そして狐と鸚鵡の子ら。

大人が遊ぶ絵は、四点ある。

リュノワの女性たち、ネッチェルの札の席、栄之の船、そして神々の盤。

残る二点は、決められない。

クロディオンの像は題だけが遊び、写真の少年は道具を持つだけである。

子どもの時間のはずの遊びで、数の上では大人が子どもを上回った。

道具も数えておく。

買ってくる遊び道具が見えるのは、四点である。

羽根と板、盤とこま、札、おもちゃの銃。

目隠し鬼の二点に要るのは布一枚で、狐の子らに至っては何も要らない。

道具のいらない遊びほど、時代と土地を選ばずに現れている。

体の使い方でも分けられる。

走り、跳ね、腕を泳がせる遊びが、目隠し鬼と羽根と狐の子の四点。

座ったまま頭と手で遊ぶのが、盤と札の二点。

立っても座っても、遊びは遊びである。

ただ、動く遊びには子どもと女性が多く、座る遊びには盤面を囲む大人が目立つ。

これも、九点のなかでの偏りにすぎないが、覚えておいてよい形である。

言えないことも書いておく。

この九点は、題や記録に遊びの語を持つ作品から集めた。

四対三の比は、この九点の話にすぎない。

絵の世界全体で大人の遊びが多いかどうかは、ここからは決められない。

盤と札の絵がなぜ大人ばかりなのかも、推測の域を出ない。

集める途中の候補には、遊びでないものも混ざっていた。

英語では、遊びを指す語が、狩りの獲物をも指すからである。

獲物を盛った籠の形の陶器の鉢と、獲物と肉と果物の静物画。

語だけが一致した二点は、遊びの絵ではないので外した。

また、凧あげや双六やかるたの絵は、今回の九点に入らなかった。

日本の遊びの絵が乏しいからではなく、集め方の網の目のせいである。

遊びの種類の全体像は、別の機会に数え直す必要がある。

最後に、最初の絵へ戻る。

スター家の羽根は、扉の上に浮かんだまま、まだ落ちてこない。

現実の遊びは、必ず終わる。

羽根は落ち、鬼は誰かを捕まえ、船は岸へ戻り、日が暮れる。

絵は、その手前で時間を止めた。

遊びの絵は、続きを描かないことで、遊びを終わらせずにおける。

大人も、神さまも、狐の子も、絵のなかでは遊びの途中である。

次に遊びの絵に出会ったら、遊んでいるのが誰かを確かめてみてほしい。

子どもだけとは、限らないのである。

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