作品を知る

草を描くことは、余白を決めること——梁楷・探幽・ドービニーほか九点

舞台の草むらと、森の下草

最後の二点で、草は場面の下地になる。

ハムレット:父の亡霊を追うハムレット
ウジェーヌ・ドラクロワ《ハムレット、父の亡霊を追うハムレット》1835年。館の記録では、石版。番号は1941.215.2。クリーヴランド美術館蔵。ウジェーヌ・ドラクロワ《ハムレット:父の亡霊を追うハムレット》クリーヴランド美術館蔵

黒と灰色だけの版画である。

画面の中央に、若い男が立っている。

体をひねり、右腕を前へ突き出す。

顔は左を向き、口を開けている。

足もとは草に覆われている。

草は短く、細い線の集まりで示される。

その左に、大きな影がある。

甲冑をつけた姿で、輪郭がぼやける。

亡霊である。

右には、男を止めようとする人が二人いる。

一人は腕をつかみ、もう一人は背後から抱える。

背景は暗く、崖の輪郭がわずかに見える。

館の札は「石版」の一語である。

館の記録は、題と技法だけを書いている。

この一枚では、草は場所を示すためだけにある。

夜の野原であることを、足もとの短い線が伝えている。

英語では、この草の名を指す語が、突進するという動詞と同じ形をしている。

題にある動きの語が、それにあたる。

つまり原題の中では、草の名と動きの語が重なっている。

日本語に訳すと、その重なりは消える。

つまりこの一点が九点に入ったのは、翻訳の前の言葉のためである。

画面の草は、主題でも背景でもない。

足もとの地面を示すための、短い線の集まりである。

数えることもできない。

それでも、原題の中では草の名が響いている。

言葉が先にあり、絵がそれを知らないという関係である。

森の中
セレスタン・フランソワ・ナントゥイユ《森の中》1841年。館の記録では、布に油彩。額なしで97×129.8センチ。番号は1977.125。クリーヴランド美術館蔵。セレスタン・フランソワ・ナントゥイユ《森の中》クリーヴランド美術館蔵

横長の大きな画面である。

97×129.8センチある。

画面の左右に、大きな木が立つ。

幹は太く、上へ伸びて葉に隠れる。

葉は濃い緑で、光を受けた部分が黄色く輝く。

中央には、水の流れがある。

水面に、木と空が映る。

手前の岸には、丈の高い草が茂る。

草は細く、上へ伸び、先が垂れる。

その根元には、小さな花が点々と咲く。

そして水辺の石に、人物がひとり座っている。

脚の下半分が獣の形をしている。

手には細い笛を持ち、口に当てている。

館の記録では、この絵は作者の自然への愛着をよく示している。

そして館は、作者自身の手紙を引いている。

私はしばしば何時間も、大きな葉の美しい植物を眺めて過ごす。

豪奢な透かし細工のように切れ込んだ葉である。

池の丈高い草、その絹のような色と、水に映る美しい照り返し。

千の色をした小さな花が、地面に刺繍のように咲いている。

それらが私に楽しみを与えてくれる。

館の記録は、その一節をそう訳している。

つまり、この画家が名を挙げているのは、木ではなく草である。

しかし画面の中で、草は水辺の一部でしかない。

画面の大きさも見ておきたい。

97×129.8センチある。

その広い面のうち、草が占めるのは下の帯だけである。

大部分は木と葉と空である。

言葉で愛着を語ることと、画面で面積を与えることは別である。

そして館は、この作者が版画で知られ、油彩は少ないと書いている。

版画の細かい線に慣れた手が、草の葉を描いている。

葉の一枚ずつに、細い筆の跡が残る。

数えてみると

九点を並べ直す。

葦が水辺に群れているのは、五点である。

一隅の葦、鴨のそばの数本、白鷺の背後、舟を隠す繁み、そして刈られる前の岸。

草が集められているのが一点、寓話の役を負うのが一点である。

屏風では草花が主役として並び、森の絵では下草として茂っている。

もう一つ数えておく。

九点のうち、草の一本ずつが数えられるのは四点である。

一隅の葦、鴨のそばの数本、白鷺の背後、そして屏風の草花。

いずれも東アジアの作である。

西洋の五点では、草は塊か、短い線の集まりである。

一本ずつ引くか、まとめて塗るか。

道具の違いが、そのまま草の見え方を分けている。

もっとも、道具だけの問題でもない。

一本ずつ引くには、そのための時間と紙の余白が要る。

余白のない画面では、草をまとめるほかない。

つまり構図の詰まり方が、描き方を先に決めている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、草が「余白と組になる」ということである。

一隅の構図では、葦は隅にあり、残りは空白だった。

鴨の一葉でも、左半分は白いままだった。

白鷺の掛幅でも、上のほうは薄い墨だけである。

草を描くことは、描かない場所を決めることでもある。

九点のうち四点で、草は画面の一部だけを占めていた。

言えないのは、草がつねに脇役だという話である。

屏風では、草花だけで三メートルを超える画面が埋まっていた。

寓話では、草は樫に勝つ側だった。

刈られる場面では、草が人々の仕事の目的だった。

主役になるかどうかは、草の丈ではなく、画面の使い方で決まる。

そして題の付け方も、その決定に加わっている。

題に草の名が入れば、見る人はそこを探す。

入らなければ、同じ草は背景として通り過ぎる。

最後に、はじめの一葉へ戻る。

葦は隅にあり、鳥は薄い墨で描かれていた。

右上には何もない。

その何もない部分が、画面の半分以上を占める。

描かれた草の数より、描かれなかった面積のほうがずっと広い。

そして空いた側には、水も空も描かれていない。

何であるかを決めないまま、絹の色だけが残されている。

九点を数え終えて残るのは、その空いた側のほうである。

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