面積が、千倍以上ひらく——トマス・サリー
切手二枚ほどの細密画から、人の背丈を超える全身像まで。九点の面積は千倍以上ひらく。注文の形が三つに分かれ、下地も象牙とカンヴァスに割れる。四十年ぶんの仕事を、寸法の欄から読み直したい。白黒でしか見られない一点もある。

面積が、千倍以上違う
九点の寸法を並べると、幅が異常に大きい。
最も小さい一点は、縦6.1センチ、横3.3センチである。切手を二枚並べたほどしかない。
最も大きい一点は、縦237センチ、横149.2センチである。人の背丈を超える。
面積で比べると、千七百倍を超える。
同じ画家が、同じ時期にこの両方を引き受けている。
肖像は、注文で描かれる仕事である。
何を描くかは決まっている。決まっていないのは、大きさと形式である。
九点の寸法の幅は、注文の幅そのものである。
九点の内訳
先に、九点の中身を確かめておく。
象牙に水彩の細密画が三点、カンヴァスに油彩が六点である。
描かれたのは、女性が三人、男性が六人。
年は1805年から1843年ごろまで、三十八年の幅がある。
いずれも肖像で、風景も静物も含まれない。
注文の形が、三つある
九点を大きさで分けると、三つの群になる。
一つは細密画である。象牙の薄板に水彩で描く。三点ある。
一つは胸像か半身像である。カンヴァスに油彩で、縦60センチから90センチほど。四点ある。
もう一つは全身像である。縦120センチを超える。二点ある。
値段も、描く日数も、置く場所も、群ごとに違う。
細密画は数日、胸像は数週間、全身像は数か月かかることもある。
料金も、その労力に応じて決まる。
一人の画家が三つの群を扱えば、幅広い客層に応じられる。
九点は、その品揃えの見本のように見える。
細密画という注文
細密画は、身につけるための肖像である。
首から下げる、蓋の付いた入れ物に収める。あるいは、机の上に立てる。
離れて眺める絵ではない。手に取って見る距離で作られる。
そのため、筆は非常に細い。髪の一本、瞳の光まで描く。
九点の三点が、この作りである。
写真がなかった時代、人の顔を持ち歩く手段はこれしかなかった。
旅立つ人に渡す、亡くなった人を偲ぶ、遠くの家族に送る。
用途が、大きさを決めている。手のひらに収まらなければ意味がない。
象牙という下地
細密画の下地には、象牙の薄板が使われた。
薄く削れば光を透かす。下から光が来て、肌が明るく見える。
水彩は象牙の上ではじきやすい。表面をざらつかせる下ごしらえが要る。
現在、象牙の取引は国際的に厳しく制限されている。新たに作られることはない。
館の技法の欄は、その材料をそのまま書いている。
書かなければ、材料の来歴は消える。書けば、いまの規制との距離も見える。
当サイトは記録をそのまま訳している。材料の名も落としていない。
見るときには、その材料がどこから来たのかも頭に置いておきたい。

九点で最も小さい一点である。
画面は楕円で、周囲が灰色に塗り分けられる。
女性が胸から上で描かれる。体はわずかに左を向く。
髪は黒く、頭の上でまとめられる。額の上に細かい巻き毛が並ぶ。
衣は白で、胸元が大きく開く。襞が細かく寄る。
胸の前で、白い布が結ばれる。
背景は暗く、輪郭がぼやける。
公開画像は白黒である。記録には水彩とあるが、色は確かめられない。
顔の大きさは、実物では一センチほどしかない。
その一センチの中に、目、鼻、口、そして髪の毛が描かれる。
拡大した画像でようやく見える細部を、当時は肉眼で描いていた。
拡大鏡を使ったとも伝えられるが、記録には書かれていない。
白黒でしか見られない
九点のうち二点は、公開画像が白黒である。
いずれも細密画である。古い写真をそのまま公開しているのだと考えられる。
細密画は小さく、光沢があり、撮影が難しい。
色の情報がないので、本文でも色については書かない。
見えないものを見えないと書くのは、必要な手続きである。

九点のなかで、最も変わった一点である。
丸い画面の中に、同じ女性が三度描かれる。
左は横顔、中央は正面、右は後ろ姿である。
三つの頭が横に並び、髪が互いに触れる。
髪は明るい褐色で、細かく巻かれる。
肩から上は裸で、胸元に白い布がわずかに掛かる。
背景は明るい水色で、平らに塗られる。
外側には金色の枠がある。上に紋章らしい飾りが載る。
枠の下辺には、細い文字が刻まれている。画像では読み取れない。
一人を、三方向から
同じ人物を三つの角度で描くのは、彫刻家のための下絵に見られる形である。
胸像を彫るとき、正面と横と後ろが要る。
ただし、この一点は象牙の細密画である。彫刻の下絵とは考えにくい。
三つの姿を並べれば、それだけで見どころになる。装飾としての工夫だろう。
館の記録には、その事情が書かれていない。ここでは推測にとどめる。
三つの姿を並べるには、三度描かなければならない。手間は三倍になる。
それでも作られたのは、注文した側の希望があったからだろう。
丸い小さな画面に、これだけ詰め込んだ例はほかにない。

膝から上を描いた画面である。
男が椅子に座る。体は右を向き、顔はこちらへ回る。
上着は深い緑で、襟が高い。釦が縦に並ぶ。
首元には白い布が幾重にも巻かれる。顎の下まで届く。
膝には淡い色の脚衣が見える。
右手に、小さな道具を持つ。眼鏡か、印章のように見える。
左手は椅子の肘に置かれる。
背景は褐色で、右上が明るい。
椅子の背もたれの木が、右側に見える。
座らせるか、立たせるか
九点の油彩を見ると、姿勢が二通りある。
椅子に座る姿が三点、立つ姿が二点、上半身だけで姿勢の分からないものが一点である。
座らせれば、長い時間の制作に耐えられる。
立たせれば、全身の線が伸びる。堂々として見える。
大きな画面では立ち、小さな画面では座る。九点はその傾向に合う。
三十インチという寸法
九点の油彩のうち四点は、縦72センチから92センチの範囲に収まる。
インチに直せば、二十八から三十六である。
当時の肖像には、寸法の等級があった。胸像、半身像、膝上、全身と上がっていく。
等級ごとに料金が決まっていた。注文する側は予算で選ぶ。
九点の寸法の分かれ方は、その等級の反映である。

九点で圧倒的に大きい一点である。縦は2.4メートルに近い。
男が全身で立つ。体をやや右へ向ける。
制服は濃紺で、襟と袖に金の飾りが並ぶ。肩に金の房が付く。
脚衣は白く、膝下は白い長靴下である。靴には留め具が光る。
左手を、赤い布を掛けた卓に置く。
卓の上には、開いた書物と巻いた紙がある。
その手前に、金色の飾りの付いた道具が置かれる。
背景の左には赤い幕が垂れ、右には柱と暗い空が見える。
足元の床は褐色で、影が長く伸びる。
金の描き方
制服の金の飾りは、絵具では作れない。金色の顔料は当時も高価である。
かわりに、黄土と白と褐色を重ねて金に見せる。
明るい部分に白を強く置き、影に褐色を入れる。
九点の二点で、この処理がよく見える。近くで見れば絵具の粒だが、離れると金属になる。
肖像画の腕の見せどころの一つである。
全身像は、誰のために
全身像は、費用も場所も要る。
天井の高い部屋でなければ掛からない。額を含めれば2.6メートルを超える。
注文するのは、公の立場にある人か、その組織である。
九点では、軍人と、大きな屋敷を持つ人物の二点がこれにあたる。
大きさは、描かれた人の立場を映している。

胸から上を描いた画面である。
男が右を向く。顔はこちらを見ない。斜め前を見る。
髪は黒く、額の上でふくらむ。
上着は黒に近く、襟が高い。首元に白い布が巻かれる。
胸の前に、開いた書物がある。頁が明るく光る。
その手前の卓には、紙と小さな箱が置かれる。
背景は暗い褐色で、左上がわずかに明るい。
顔だけが明るく、そこに光が集まる。
書物を持たせるのは、学識を示す型である。
顔の向きと、視線
九点の人物の顔の向きを数えてみる。
正面に近いものが四点、斜めを向くものが四点、横顔が一点である。
視線がこちらに合うのは五点で、残りは外している。
視線を外すと、思案しているように見える。合わせると、対面している感じになる。
どちらを選ぶかは、注文した人の好みでもあっただろう。
持ち物で、職業を示す
九点の人物が手にするものを数えてみる。
書物が一点、小さな道具が一点、巻いた紙が一点。
残る五点は、手が画面に入らないか、何も持たない。
持ち物があれば、その人の仕事が推し量れる。
なければ、顔と衣だけで判断することになる。

胸から上を描いた画面である。
男が左を向く。顔はこちらへわずかに戻す。
制服は黒に近い濃紺で、金の釦が縦に並ぶ。
肩には金の房飾りが載る。右肩のものが大きい。
襟は高く立ち、金の縁取りが入る。
首元には白い布が見える。
髪は褐色で、額の上で分けられる。
背景は暗く、右に赤い椅子の一部が見える。
画面の四辺には、金色の額の縁が写り込む。
白い布という見せ場
九点の男性は、いずれも首元に白い布を巻いている。
当時の男性の装いで、幾重にも巻いて結ぶ。
黒や紺の上着の上で、この白が最も明るい面になる。
顔のすぐ下にあるので、視線を顔へ導く働きもする。
九点を通して、この白の描写には手数がかけられている。
制服という装い
九点のうち二点で、人物は制服を着ている。
金の釦、肩の房、襟の縁取り。いずれも階級や所属を示す。
装いが立場を語るので、持ち物は要らない。
制服の肖像は、記録としても使われた。組織に掛けられる。
だから、注文主が本人とは限らない。

九点で二番目に大きい一点である。
男が膝から上で描かれる。体はやや左を向く。
上着は黒で、前が開く。内側に白い衣が見える。
首元には白い布が巻かれる。
髪は白く、耳の上でふくらむ。
両手を体の前に置く。指が長い。
左手前の卓には、金色の房の付いた飾りと、書類が積まれる。
背景の左には赤い幕が垂れる。右は明るい壁と柱である。
床は褐色で、光が斜めに差す。
卓の上の物
九点の油彩のうち三点で、卓の上に物が置かれる。
書物、巻いた紙、書類、そして金の飾りの付いた道具。
いずれも、その人の仕事や地位に関わるものである。
人物の手には持たせず、そばに置く。手の描写を省ける利点もある。
小道具の置き方にも、型があると分かる。
幕と柱
九点の油彩のうち三点で、背景に赤い幕と柱が描かれる。
これは肖像画で古くから使われる型である。
幕は室内を示し、柱は建物の格を示す。
実際にその部屋があったとは限らない。画室で組み立てた背景である。
型を使えば、背景に迷わずに済む。制作の速さにも効く。

九点の油彩で最も小さい一点である。
男が胸から上で描かれる。顔はほぼ正面を向く。
髪は黒く、量が多い。左右にふくらむ。
上着は黒で、襟が高い。
首元に白い布が巻かれ、結び目が見える。
顔には光が正面から当たる。影が少ない。
背景は暗い緑褐色で、右上がわずかに明るい。
輪郭は柔らかく、背景に溶ける。
小さな画面では、顔以外の情報がほとんど入らない。
光の当て方
九点の油彩では、光は斜め前から来る。
顔の片側が明るく、反対側が影になる。
背景は暗く、輪郭が沈む。人物が前へ出る。
これは画室の窓を使った照明である。屋外の光ではない。
同じ照明が三十年以上使われている。方法が固まっている。
小さくなるほど、顔だけ
九点の油彩を大きさの順に並べると、はっきりした傾向がある。
大きい画面ほど、背景と持ち物が増える。
小さい画面では、顔と襟だけが残る。
省かれるのは、いつも人物の周りである。顔は最後まで残る。
注文の等級が下がっても、顔の質は落とさない。肖像として当然の判断である。

九点で最も遅い年の一点である。
細密画で、四角い画面である。
女性が胸から上で描かれる。顔はこちらを向く。
頭から肩へ、薄い布が掛かる。透けて髪が見える。
髪は左右に分けられ、耳の上でまとめられる。
衣は明るく、肩の線がなだらかである。
背景は暗く、上部がやや明るい。
公開画像は白黒で、周囲の額まで写っている。
額は木製で、内側に細い縁飾りがある。
布の透け
いま見た一点では、頭から肩へ薄い布が掛かる。
その布を通して、髪と肩の線が見える。
透ける布を描くには、下の色を残しながら上に白を薄く置く。
細密画の小さな画面で、この処理を行うのは難しい。
白黒の画像でも、その明暗の重なりは読み取れる。
額ごと撮る
九点のうち二点は、額に入った状態で撮影されている。
いずれも細密画である。
細密画は、額や入れ物と一体で伝わることが多い。外すと壊れやすい。
館も、額を含めて一つの品として扱っている。
そのため、画像には枠が写る。作品の範囲が広がって見える。
額の厚み
九点のうち四点には、額の寸法が記録されている。
奥行きは6.8センチから11.4センチである。
最も厚い額は、最も大きい全身像に付く。重さを支える必要がある。
小さな細密画の額は、記録に寸法がない。かわりに画像に写っている。
額は作品の一部であり、同時に作品の外側でもある。
三十八年の幅
九点の年を並べると、1805年から1843年ごろに及ぶ。
三十八年である。一人の画家の仕事の大半にあたる。
その間、細密画も油彩も、大きいものも小さいものも作り続けている。
注文の内容は、依頼する側の事情で決まる。画家が選ぶわけではない。
九点のばらつきは、市場の姿をそのまま映している。
題の書き方
九点の題を見ると、書き方に幅がある。
人物の名だけのものが六点。括弧で旧姓や本名を添えるものが二点。
そして、名の分からない一点は、婦人の肖像、とだけ書かれる。
括弧が付くのは、いずれも女性の肖像である。
当時の呼び方が、そのまま記録の形になっている。
記録の詳しさが揃わない
九点は、二つの館に分かれて所蔵されている。
一方の館は、額の寸法まで記録する。もう一方は画面の寸法だけである。
寄贈や受入の情報も、取得できたものとできなかったものがある。
そのため、この記事の図版の説明も、館によって書ける項目が違う。
記録の粒度は、所蔵先の方針で決まる。
同じ顔が、二枚あることも
肖像には、写しが作られることがある。
家族が複数いれば、それぞれの家に一枚ずつ要る。
同じ画家が同じ顔を二度描くのは、珍しくない。
その事情については、同じ顔が、二枚ある——トマス・サリーで扱った。
九点のなかには、そうした対の相手は含まれていない。
数をこなす仕事
この画家は、生涯に二千点を超える肖像を描いたと伝えられる。
一点にかける日数を減らさなければ、その数にはならない。
背景の型、決まった姿勢、顔への集中。九点にもその工夫が見える。
制作の速さについては、肖像画は、二十日で仕上がった——トマス・サリーの帳簿で扱った。
九点は、その帳簿の中身を目で見る材料になる。
大きさから読む
この記事は、寸法の欄の数字から入った。
六センチと二メートル半。同じ画家の作とは思えない差である。
しかし、どちらも同じ仕組みの中にある。注文があり、等級があり、料金がある。
大きさは、絵の価値ではなく、注文の形を示している。
同じ帖の写しについては、他人の絵を、写して覚える——トマス・サリーの写生帖にも書いた。そちらは注文のない仕事である。








